礼拝190505

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2019年5月5日 復活節第3主日礼拝 題:「洗足の主」

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章1~11節 説教:丸大勝牧師

今日の聖書箇所で、洗足をされる主イエスのことが記されている。それは、受難週の木曜日の最後の晩餐の席でのことであった。これから何が起こるのか全く考えられなかった弟子たちは、ルカ22:24によると、自分たちの中でだれが一番偉いだろうか、と争論を始めたとある。これは彼らのお決まりの関心事であった。そこで主は立ち上がり、本来奴隷がすべき洗足を弟子たちのためにされたのである。さしもの弟子たちも、そういうことを主がされた時驚いたことであろう。ペテロは思わず、「わたしの足を洗わないで下さい」と言った。すると、主は「わたのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」、「もしあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係りもなくなる」と言われた。この洗足には、二つの意味がある。①主が洗足されたことが、十字架の贖いと重ねられている。これからイエスは、弟子たちの罪の身代わりとして十字架につき正義の父なる神の裁きを受けられるのである。洗足される主は、贖う者、洗足される弟子たちは、贖われる者たちであった。この真理を受けとめた時、彼らは本当の弟子となる。そして、私たちも同じである。その人がどんなに神学に造詣が深くても、教会生活を長くしていても、この信仰がなければ、その人はクリスチャンではない。信徒とは、主イエスの愛の迫りを受けた人のことをいうのである。そこに神の愛に対する応答が生まれてくる。②互いに仕え合うこと。マタイ20:26,27の実際的実例なのである。弟子たちは、どんなに卑しいと思われることも、進んで互いに給仕し合い、互いに奉仕し合い、互いに仕え合う者として召されたはずである。それにも拘わらず、弟子たちは、人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしても自分だけは高いところに上ろうと考えていたのである。しかし、救い主イエスの受肉から始まり、33年間の地上の歩みを振り返るならば、そのご謙遜は半端ではなかった。それを思う時に、弟子たちがやってみるのに卑し過ぎる事柄などは何一つなかった。互いに仕えることとは、律法ではなく、主イエスがなし遂げてくださった贖いの応答としてその喜びをもって人々に仕えていくことなのである。「キリストの愛、我らに迫れり」、そのことによって他人の洗足もできる。