礼拝190512

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2019年5月12日 母の日主日礼拝 題:「ザレパテの女」

聖書箇所:列王記上17章8~16節 説教:丸大勝牧師

聖書に何人かの幸いな異邦人の母親が登場する。彼女たちはアブラハムの子孫ではないが、神を体験した。今朝の箇所でも一人の母親の周辺に起こったことが記されている。その時代は、イスラエルの最悪王アハブがツロ出身の妻イゼベルにより偶像礼拝の罪を犯し、バアル宗教を国教にしようとするほどであった。徹底した堕落が国家レベルで起こった。そこで神は最悪王に対して最大の預言者エリヤをお立てになられた。そして、アハブとイスラエルに対する裁きとして数年間の恵みの雨を留められることを宣言されたのである。これは、農耕神バアルへの挑戦でもあった。それから神の人とアハブとイゼベルとの霊的戦いが展開されるのであるが、神は主権をもってエリヤを守られるのである。まず、エリヤをケリテ川のほとりに身を隠させ、カラスにより養われた(17:4)。その後、シドンのザレパテの地で、やもめ女によって養われるのである(17:9)。私たちは、このような聖書の記事に触れる時、その非現実性に腰が引けてしまうことがある。そんなことがあるはずがない、と決めつけてしまうのである。そのようなことを信じる信仰のことを盲信と片づけてしまうのではないだろうか。大事なことは、その不思議なことを神が語っておられるということである。「不可能を可能にする」神が約束として宣言しておられるということである。さて、イスラエルのききんはザレパテにも及んでいた。貧しい母子家族にも大変な影響を与えていた。この二人に未来はない。あるのは絶望だけであった。母親は、親子心中を考えていた。一握りの粉とびんの少しの油が残っていたので、数本のたきぎを燃やし料理して死のうとしていた。ここに母親としてのどうにもならない限界の悲しみと子を死なせなければならないことに対する怒りと憤りがあるように思われる。しかし、そこにエリヤが来て、水と一口のパンを求めるのである。彼は彼女にとっての客人でもなければ縁者でもない。全く見ず知らずの人である。突然現れて何ということを注文するのであろうか。しかし、ここから神の出来事が起こるのである。エリヤの言葉を信じて言うとおりにしたところ、「かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」奇跡が起こった。つまり、母子の命は守られ生きるようになったのである。異邦人の母が子を救ったのだ。