礼拝190519

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2019年5月19日 復活節第5主日礼拝 題:「時は夜であった」

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章21~30節 説教:丸大勝牧師

「裏切り」という言葉がある。約束や関係を捨て寝返るなどの行為、想像とは違った期待はずれの事象に対して用いられる言葉。裏切者の代名詞のようにキリストの弟子イスカリオテのユダが扱われることがある。彼はユダヤ出身で後の弟子たちは皆ガリラヤ出身であった。他の弟子たちからも信任を得て会計係であった。また才能豊かな人物であったようである。しかし、そんな男がその後主を裏切ることを思えば、ユダがイエスの弟子の一人になったのは、不可解な謎である。おそらく当時のユダヤ人がイエスのことを政治的な意味のユダヤの王として担ぎ上げようとしたように、彼も主を押し立てて一旗揚げようとしていたのではないかと想像する。ユダには地上的な野心があったのである。ところが、受難週の日曜日、エルサレムにろばの子に乗って入城されてからも、主は何もなさらなかった。この人こそローマ帝国とヘロデ王の手から自分たちを自由に解放してくれる救い主として期待し注目してきたにも拘わらず、主は一向に行動を起こされなかった。ユダの願いは実現されないまま時だけ過ぎていく。やがて、最後の晩餐に至り、そこで彼はサタンに魂が捕らえられてしまう。「ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった」(30節)とある。「時は夜であった」とは、何と象徴的な言葉であろうか。闇の支配者である悪魔の手先となって、夜の闇に出て行くユダの後ろ姿を送り出して、誰が主を裏切るために出ていったと思うことができたであろうか。だが、マタイ26:14-16によると、ユダはこの過ぎ越しの食事の前にすでに祭司長から裏切りの報酬である銀貨30枚を受け取っていたことがわかる。そして、時はゲツセマネの祈りの終わった後で、ユダの主に対する冷たい接吻を印として、敵に主を引き渡してしまうのである。そのことによって彼は真の裏切り者となってしまった。心に思い描く間は、まだ悔い改めができるチャンスはある。しかし、実行してしまうならば取り返しがつかなくなってしまう。そのような裏切り者ユダをマタイ26:24では、「その人は生まれなかった方が、彼のためにはよかったであろう」と言っている。私たちはこの言葉で心打ち震える。だが、ルカ22:22には、その言葉がない。なぜか。それはそこにルカの福音が秘められているのだ。