礼拝190526

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2019年5月26日 教会学校合同礼拝 題:「ぶどう園のたとえ」
聖書箇所:詩篇116篇5節 説教:丸大勝牧師
マタイ20:1-16に主イエスは天国についてのたとえ話を語っておられる。文脈から読むと、「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」(19:30)の言葉を受けている。これは、順序の入れ替わりについて教えているのではない。ぶどう園で労働者が主人に雇われる。午前9時、正午、午後3時、そして午後5時に1デナリ(1万円)でそれぞれがぶどう園に送られていく。労働の長さは賃金に関係ない。皆同じ約束で雇われる。ところが、一番長く働いた者たちが、夕方雇われ少ししか働いていない者たちが同じ報酬を得たことに不平を言い出した。ここで主人は不正をしていない。平等にしてやりたいと思い皆同じように支払ったのである。このたとえ話の主人とは神のこと。1デナリとは、神の義のことで救いを意味している。労働者の雇われた時差は、天国に招かれた年齢を意味している。10代、20代、30代、そして80代に招かれることがある。人生のどの段階であっても、神は人々を等しく、ご自身の恵みの人生に招こうとしておられるのである。そこである人は、10代で神の招きに応えても、80代で神の招きに応えても与えられるものが皆同じであるならば、人生の夕暮れに信じて救われた方がよい。また、1時間働いた者も一日中働いた者も全く同じものしかいただけないとするならば、働く時間は短ければ短い方がよい。それゆえに、自分は老人になって引退するまで、自分の好き勝手な人生を生きてこの世の生活を楽しむのだ、と考える場合もあるかもしれない。それは正解であろうか。おそらくそういう人は神の招きのチャンスを失うだろう。滅びが待っているだけである。創造主であり救い主に対する態度、姿勢が間違っているからである。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコブ4:6)とあるからである。思えば、救われてからの人生は、長ければ長いほどその特権も喜ばしいものである。ここにクリスチャン人生の醍醐味がある。「主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる」とある。神の天国への招きは、時給いくらで給与が支払われるこの世の正義の均衡が崩壊している。それほどまでに、神は気前よく私たちを招いておられるのである。そこに神の正しさと恵みの深さと憐みの豊かさがある。招きに応えよう。