礼拝190602

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2019年6月2日 復活節第2主日礼拝 題:「最後に残った者たち」
聖書箇所:ヨハネによる福音書13章31~38節 説教:丸大勝牧師
主イエスを裏切ることを心に定めたユダは、最後の晩餐の席から立って出て行った。「時は夜であった」(30節)とある。正に暗闇の出来事であった。受難に先立って最後に残った者たちがいた。それは、11人の弟子たちであった。そこで主は一つの説教を始められた。「わたしの十字架の時は近づいている。地上でのわたしの業は終わった。明日、一つの出来事が起ころうとしている。その出来事は、わたしを愛するあなたがたにはどれほど心に痛むものであったとしても、実際には、わたしとわたしの父との両方に最も栄光を受けさせるものなのである」(31,32節)と。弟子たちには、その意味は理解できなかったであろう。その逆に、これらすべては、弟子たちの心を恥じと失意と困惑とで満たすような出来事であった。救い主が呪われた十字架につけられて死ぬなどと誰が納得することができたことであろう。しかし、それが父なる神の知恵、真実、聖、愛の栄光であった。御子が唯一父なる神と永遠の仲保者となり得るのであった。そして、主イエスにとっても、十字架は憐みの深さ、忍耐強さ、御力の栄光を現した。主は私たちの身代わりに罪の罰を受け、呪いを受け、審判を受け取ってくださった。生命かけた愛がここにある。「もうすでに成就したこと」としてここで語られている。「子たちよ」(33節)とは、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(13:1)主イエスの熱いみ思いによる呼びかけである。ここだけに使われている。「わたしは束の間あなたがたと一緒にいるが、やがていなくなる。あなたがたはわたしを探すが会えない。召されないと行けないところに行くからだ。だからこれから語る言葉をよく聞いていなさい」と言われるのである。それが、34,35節である。これは主の弟子たちへの最後の命令である。「互いに愛し合いなさい」とは、必ずしも新しい戒めではない。旧約にも愛の律法はある。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する愛である。しかしながら、愛の律法はイエス・キリストの十字架による贖いの愛が実現された時から、意味が変わってしまったのである。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたは愛し合いなさい」と。これが新しいのである。その愛は、己に死ぬ愛、犠牲の愛、人を生かす愛。聖霊の力なしにできるはずがない。