礼拝190616

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2019年6月16日 父の日・創立記念主日礼拝 題:「父としてのヤイロ」

聖書箇所:ルカによる福音書8章40~42節 説教:丸大勝牧師

詩人さだまさしの、「娘へ~大和撫子養成ギブス篇」という曲がある。世にも素敵な女性になるように、我が娘の成長を願いながら大和撫子養成ギブスという名前の、面倒なハードルになろう、となんともいえない父親の愛情を歌っている。人の子の親としてどんな人も我が子の成長と幸せを願うことはいつの時代も同じであろう。ここにヤイロという名の父親が登場する。会堂司であり、12歳の一人娘がいた。この子が死にそうになった。ヤイロは父親としてあらゆる手段を試み娘の病の癒しを求めたことであろう。しかし、すべては徒労に終わったのではなかろうか。それによって彼は如何に父親として無力であるのかを思い知らされた。そんな時にヤイロは主イエスのことを聞くのである。彼は地位も名誉もある権威ある者であったが、そのような誇りをかなぐり捨てて、自分が今何をしなければならないのかを理解し、主に対して救いを求めたのである。彼の体験は、「信仰」というものがどんなものであるのかを自ら学ぶことになった。その意味において、今日も多くの父親に神を信じるということは、どういうことなのかを指し示す証人の一人となった。彼は通常は特に信仰深い人であったとは思えない。実に一般的な普通の人であったのだろう。ただ愛する娘が死の瀬戸際にあったことにより、父親として必死になって信じることを学ぶことができたのである。彼は、主の御前にひれ伏して、なりふりかまわず懇願した。繰り返し繰り返し、「しきりに願った」(41節)。「娘を救ってください」と。ところが、家に主にお越しいただく途中でイエスの足が一人の女の登場によって留められてしまった。12年間出血が止まらない女が癒しを求めて主に触ったのである。一分一秒、ヤイロにとって気が気でなかったことであろう。だが彼にとっては信じることしかできなかった。そこに絶望の知らせが家から来た。「お嬢さんはなくなられました」(49節)と。崩れ倒れようとする彼を支えたのが、主の力づけの言葉である。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」(50節)。ここで教えられることは、「父親」でなければ誰がこんなことを信じることができたであろう。周辺の連中は、泣き悲しみ騒ぐだけである。主は、親と3人の弟子以外の者は家から出された。そこで奇跡が起こるのである。ハレルヤ。