礼拝190721

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2019年7月21日 三位一体第6主日礼拝 題:「あなたがたも生きる」

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章18~20節 説教:丸大勝牧師

 「指切り拳万、指切った」と、親子が約束する場面が思い出される。しかし、幾たび親は子の約束を軽くあしらってきたことだろう。親の都合で約束は簡単に破られたのではないだろうか。だがここに約束を違わないお方がおられる。彼は二つの尊い約束を宣言された。①「わたしはあなたがたを捨てて孤児としない(慰めのないままにはしません)。あなたがたのところに帰って来る」(18節)。これは、終末的意味がある。主イエスが十字架の死によって世を去られ取り残される弟子たちのことではない。「わたしはいつまでも天にとどまってはいません。やがてあなたがたのところに帰って来ます」ということなのである。これは、黙示録22:20「しかり、わたしはすぐに来る」と言われた再臨の約束と重なる。一個のご人格としてお越しになられるキリストの再臨は、教会の大いなる希望である。それは、すべての決着の日でもあるからだ。救いと裁きがなされる。神にとって総決算の時である。②「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」(19節)。これは、現在のことを意味している。「主は昇天してこの世を去られる。しかし、その時でさえも、あなたがたはわたしを見、信仰の目をもってわたしを見続けるであろう」と不動、不変のもとして言い切っている。聖書においては、「救い」の意味するところは、「今すぐに救われること」と「終末的に救われること」の二つがある。前者は、新生、聖化であり、後者は、栄化である。キリストは、永遠の贖いと救いを人類のために成し遂げるために、十字架による罪の身代わりの死という刑罰を受けてくださり、人類の罪の償いは完了した。そして、その証拠として主は復活された。これは救いの勝利の印であった。私たちが、キリストを救い主として告白する者は、彼が死によみがえったように、古い自分に死に、新しい自分に生き返ることができる。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(第二コリント5:17)。実に、キリストが生きるので、彼を信じる者も生きることができるのである。キリストの命が今、信じる者の内に流れはじめ、その命は終末時代までの生きる力となり、そして、やがてその命は、再臨のキリストとの出会いにより完成する。栄光の姿に変わる。