礼拝190908

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2019年9月8日 三位一体第13主日礼拝 題:「実を結ぶ道」

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章1~6節 説教:丸大勝牧師

今朝の箇所は、年度標語と聖句を思い起させるテーマである。キリストと信者が結合していることにより結ぶ実のことである。私たちが、「私は神につながっている」と言う場合、いくつかの意味があろうかと思う。①「洗礼を受け教会員籍をも持っている人」。②「規則正しく礼拝し聖餐式も受けている人」。③「キリストとのいのちの関係に生きている人」。大切なことは、その信者が、心に主の恵みを受け、信仰により生きて、聖霊の内的な働きを持っているということであろう。黙示録3:1後半に、主が初代教会サルデスに対して、「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と語られている。だから、「悔い改めなさい」と迫っておられる。そこで、このたとえ話から、教えられることは、信者にとって重要なことは、その人が聖霊の実をその生活の中で結んでいるかどうか、ということである(ガラテヤ5:22,23)。それは、「キリストにとどまること」である。そのことによって、主のいのちの樹液をいただいて、枝としてそれを吸収して、良き実を結ぶのである。聖霊の実が見られないところに、心の中に生きた信仰はないのである。そこで、信者に恐怖心をあおり、鼓舞するために、2節が読まれる。「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき」と。実を結ばない者は、「切り捨てられる」というのである。しかし、それは正しい読み方ではない。「父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいにされるのである」とは、農夫なる父なる神が、信者に霊的信仰の結実を与えられるために、「剪定される」ことを意味している。つまり、これは神が深い御思いと目的をもって、涙を呑んで、信者に試練を与えて、その人からさらによいものを引き出させるために取り扱われることなのである。これは、受ける側から捉えると遠慮したい事柄であろうが、創造主から見るとそこに深遠なご計画があって、それによって神の栄光を現わそうとしておられるのである。今、祈祷会でヨブ記を学んでいる。彼ほど立派で信仰深く尊敬される人物は、他にいなかったのではないかとみられている。だが大変な試練が彼の人生を襲うのである。ヨブの霊的葛藤の中に、神との結合による解決の道を知ることができる。