礼拝190915

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2019年9月15日 敬老の日主日礼拝 題:「老人ヤコブの人生」

聖書箇所:創世記48章15、16節 説教:丸大勝牧師

アブラハムの孫であったヤコブは波乱万丈の生涯を終えた。創世記49:33にヤコブの息絶える様子が記されており、それが彼の最後の記録である。ヤコブは、生来野心家であり、策略家であり、目的のためには手段を選ばない横着な人物であった。その名のように「押しのける者」であったのである。そのような男が、やがて神の祝福への渇望を感じ長子の特権と祝福を得る。しかし、その後、失敗と挫折体験により救いを体験する。さらには、ヤコブからイスラエルに改名するほどの自我が砕かれ心聖められる体験をした。その結果、患難と懲戒にも忍耐をもって受けとめ信仰の完成に向かうのである。いよいよ臨終が近づいた時、彼はその子らを集めて祝福の言葉を述べた。彼の老化による肉眼は衰えていたが、霊眼はさえていたのであろう。48:13-20の箇所は興味深い。ヨセフが二人の子ども(マナセとエフライム)をヤコブの所に連れて来た。長子ルベンが長子の祝福を失い、ヨセフがその祝福を受け継ぐことになる。そして、今やその子マナセとエフライムにも受け継がせることになった。ヨセフは父のひざの間から息子たちを取り出して主を礼拝して、父の子として彼らに祝福の手を置くように促したが、ヤコブはエフラエムを長子として祝福して、マナセも祝福した。これは、古代の養子縁組の様子である。ヤコブの祝福は、三重の神の名による。①「祖父と父の仕えた神」。選びとアブラハム契約。②「自分を今まで導き養ってくださった羊飼いなる神」。どんなことがあっても守られ生かされる主。③「贖われた御使い」。ベテル(救い)とペニエル(聖め)で彼に顕れた神。ヤコブは、ヨセフの子どもたちにこれらの祝福を与えて祈った。信仰というものは、親から子へ、子から孫へ、と受け継がせるものである。偉大なる神を信じる信仰物語は、終わりなき物語として継承されていくのである。ヤコブは、約束の国へ必ず子どもたちが導き返されることを信じていた(48:21)。選びの神が共におられて働いてくださるのである。それにしても、ヤコブの死についての聖書の証言として、「息絶えて、その民に加えられた」とは、人の老いることの厳しさと大変さを思わざるを得ない。「年が寄って、『わたしにはなんの楽しみがない』と言うようにならない前に、創造者を覚えよ」とは、意味深い。救い主は、全人類の罪からの贖いと救いの御業を成し遂げて昇天された。主が教会に与えられた固有の贈物は何であろうか。それが、主の持っておられる平安である。その平安は、①「主が十字架の死と復活により買い取られたもの」。生きることの恐れと死ぬことの恐れが人にはある。本質的、かつ根本的人間の深いところの問題(神との和解と平和)を解決された。②「この世が与えられないもの」。地上のみ有効ではなく。世俗のものではなく。色あせることなくいつまでも続くもの。永遠にまで至るもの。③「この平安は、欠けるものがないもの」。何かで補われなければならないことがない。完全な平安である。二つ目の主が残された良きものは、希望である。それは、28,29節で語られている再臨である。主が再びこの地上に来られて救いと審判を与えられる信仰は、初代教会の希望であった。それは、今日まで続いている。ある意味で教会は待ち疲れて霊的疲弊状態になっているのかもしれない。しかし、主の約束は変わらない。ある人の戦地での出来事である。連隊長が戦争中ずっと戦い続けていたにも拘わらず、何の報いも得られなかった兵士を招いて栄誉を称える食事会に招いた。食事の後、隊長が、「君は戦地でのことをあまり話さないね。君が経験した最も素晴らしいことを話しなさい」と促すと、彼は、「ある日、一人の変わった兵士と出会った。その人は一心に聖書を読んでいた。私は聖書が何の本であるのか知っていたが、自分にとっては何の価値も見出すことができなかった。しかし、彼は、『私の読んでいる箇所を聞いてごらん。あなたがたは心を騒がせないがよい。・・』と最後まで読んだ。「ああ、私もそのところは何回も読みましたよ。しかし、何もいいことはなかった。そんなもの捨ててしまいなさいよ」と言った。『もし、君が私にとって聖書が何であるのか知っていたら、そんなことは言わないよ』と。彼の顔は輝いていた。その顔をそれまで一度も見たことがなかった。数日後、身近なところに爆弾が落ちた。若い兵士のことが心配になり見に行くと彼は致命傷を負っていた。彼は胸のポケットから聖書を取り出してそれを掲げた。私はその時の兵士の顔が忘れられない。そして、最も素晴らしいことは、彼の救い主が私のものとなったことです」と。