礼拝190922

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2019年9月22日 三位一体第15主日礼拝 題:「キリストにとどまる」

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章7~11節 説教:丸大勝牧師

主イエスの語られた真のぶどうの木のたとえ話は、信者と主の関係をよく表している。主と信者が生き生きとした命の関係に結びついているならば、その人は豊かな信仰の結実の恵みに与ることができるのである。これが、主につながることであり、主にとどまることである。さて、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしの戒めを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。」(9-10節)と言われた。先日、羽仁もと子氏の友の会の集いに来られる方々のことを聞いた。確かにこの団体はキリスト教系なのであろうが、その会員がすべてキリスト信仰に生きているかというとそうではないようである。この7節の言葉も都合よく読んでいるそうである。「なんでも望むものは求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」とあるが、大切なことは、その前の言葉である。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」との前提があるのだ。主との命のつながりがないのに、どんなに求めても祈りが自分勝手に適えられるはずがない。主にとどまり愛のうちにいるということも同じである。「もしわたしのいましめを守るならば」とある。戒めを守るとは、御言葉に従うことである。戒めを守るという具体的な日常生活の中ではじめて主の命の関係になっていることが証される。聞いたり読んだりするだけでは、私たちは主の幹から命の樹液をいただくことはできない。しかし、戒めを守るということは、「律法的に生きる」ということではない。私たちは律法遵守によっては救われない。罪深い者がモーセの十戒にしても愛の律法にしても一言一句完璧に守れるはずがない。できるなどと思いこんでしまうならば、偽善者がつくられるだけである。実に、罪人は律法に向き合う時、認罪が生じるのみであろう。しかし、そこに主の十字架の贖いが重ねられる。そして、罪人を救ってくださる神の恵みを知る。そして、それのみならず、新生という聖霊による新しい人生の幕開けによって、内側から主の助けがあり、戒めの実行者として整えていただくことができるのである。つまり主の原動力が心に与えられるのである。