礼拝191013

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2019年10月13日 三位一体第18主日礼拝 題:「驚くべき選び」
聖書箇所:ヨハネによる福音書15章12~16節 説教:丸大勝牧師
私たちは、どうしてキリスト者になったのであろうか。家族や友人が信者で信仰を志したとか、ある動機の下に聖書を学び信仰を持ったとか、目前の事情をその理由として説明することがある。今朝の箇所でキリストが直接的に語られた弟子たちに対する言葉は、ペテロたちがなぜキリストの弟子となったのかが示されている。それは、弟子たちが勝手にキリストを選んだのではなく、キリストの方が彼らを選ばれたというのである。しかも、エペソ1章4節によると、「天地の造られる前から、(神)がキリストにあってわたしたちを選び」とある。何とこの遠大なご計画の下に、信仰を持つことができるように神により導かれたのである。これは、そのまま私たちにも適用される。すなわち、こちらが神をとらえたのではなく、神が私たちをとらえてくださったのである。これは、深い驚くべき神の選びである。その選びは、消極的にはマタイ5章13節にある「地の塩」となることである(19節、この世にあって防腐剤のように浄化する)。積極的には、マタイ5章14-16節にある「世の光」となることである(16節、良き結実)。私たちは、ただ選ばれただけではなく、「立てた」(16節)とあるように、任命されたのだ。立てられたのは、キリストであり、立てた場所は、「この世・教会」である。主は、そこで弟子として私たちが、消極面と積極面を持つ効果的な神の子としての働きをなすように選ばれたのである。ある人たちは、ここで精神的プレッシャーを感じてしまうのだが、感謝なことに主イエスは、この使命達成のために私たちを突き放しておられるのではない。「おまえ一人で実を結べよ」と言っておられるのではない。すなわち、実を結びそれを保つために、祈りの世界を与えておられるのである。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さる」(16節)と約束しておられる。つまり、信者は孤独の中主の証人となるのではなく、神との温かい交わりという親密な関係によって、知恵と力を得て必要が満たされながら労し働くことが許されているのである。これは、何という慰めであり、励ましであろうか。私たちの群ですでに天に召された諸先輩である牧師方の多くは祈りの人であった。その一人の先生がご子息に語られた言葉を聞いたことがある。「いつも祈りつつ行きなさい」と。その祈りは結実につながったのだ。