礼拝191215

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2019年12月15日 待降節第3主日礼拝 題:「マリヤの賛歌」

聖書箇所:ルカによる福音書1章46~56節 説教者:丸大勝牧師

 「恵まれた女、おめでとう」(1:28)と御使ガブリエルはマリヤに受胎告知した。それは人類の救い主の母となることを意味していた。彼女はガリラヤ山中の一貧村ナザレに、ダビデ家の出とはいえ、今は落ちぶれの身となり、見る影もない貧しい大工、ヨセフの婚約者であった。マリヤの人生は一労働者の名もない妻としてその日暮らしをしつつ一生終わるぐらいが、彼女の運命であったのであろう。ところが、そのような年若い娘に驚くべき知らせが伝えられたのである。神の独り子の母となる大事業のために選ばれ召されたのである。全能者の御目に留まり御子の受肉降誕(インカーネーション)に関わる大役を務めることになったのである。何という光栄あることであろう。しかし、彼女は人間以外の者ではない。原罪がないのでも神でも救い主でもない。だが今日マリヤの人生には大いに学ぶところがある。①謙遜の人(48,53節)②信仰の人(38,45節)。③服従の人(38,39-40節)。④思慮深い人(46-55節)。マリヤは日々御言葉と共に生きていたのであろう。聖書を読み黙想し吟味していた。46節以下のマリヤの賛歌(マグニフィカート)と呼ばれている箇所には、神の御言葉が満ちている。一言一句が詩篇からの引用である。マリヤは日常的に神の言葉を心にとめていたのだ。(詩篇34:2,35:9,103:17,98:1,118:15,107:9,132:11) それゆえに、エリザベツを訪問した折に、御言葉が奔流のように流れ出たのである。神の言葉に導かれる人はまさに思慮深く生きることができることを示していると思う。それにしても、マリヤの生涯は尊いものであった。イエスが誕生した時その場にいた。そして、命をかけて我子を育てた。しかしいつしかイエスのこの世に来た目的を見失いかけたが、彼が公生涯にお立ち上がりになられてより、静かに我子を見守りながら生きた。そしてその日その時が訪れ、イエスは十字架の死を遂げられたのだ(2:34,35)。実に、マリヤは人として唯一イエスの誕生から死まで見届けた人である。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)との主の言葉が響いてくる。マリヤはイエスの死と復活を見定め約束の聖霊降臨後、静かに控えめに生を全うした。生涯マドンナであった。