礼拝200101

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2020年1月1日 元旦礼拝 題:「祈り求めるもの」
聖書箇所:マルコによる福音書11章20~24節 説教:丸大勝牧師
「人はなぜ祈るのか」と問うならば、「祈らずにはおられないからだ」という答えが出てくるのではないだろうか。今年も初詣においてどれほどの日本人が神社仏閣に足を運んで、手を合わせ、柏手を打っていることであろうか。一般論として、「祈りとは神などの人間を超える神格化されたものに対して、何かの実現を願うことである」と定義されていた。キリスト教信仰にとっては、なおさらのこと祈りは重要な事柄である。信仰生活の中心そのものである。祈りは、讃美、感謝、悔い改め、祈願、とりなし、静聴(神の言葉に対する応答)である。また、祈りは三つの要素がある。①神との対話により霊的呼吸をするため。②神の命令に従うため。③神の御心を求めるため。「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めるものは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(24節)と主イエスは語られた。その前には、22節で「神を信じなさい」と言われている。ここで二つの信ずべきことが示されている。①神を信じて祈ること。創造主、愛と真実、約束の神を信じて祈るのである。②祈った内容が適えられたことを信じて祈ること。23節では、「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心から疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」とある。私たちの日常においてつきまとう疑い。それに打ち勝って疑わないで信じることが必要なのである。これは神の言葉である聖書に信頼する姿勢がなければ到底持つことができない信仰である。神と聖書に従っていくところに祈りが生まれる。「疑い深いこの弱い者を助けてください」と祈っていく。また祈りの妨げとなってしまう人間関係問題が、25,26節のところに記されている。他者を赦すことなしに自分の願いを一方的に求めてもそれが聞かれることはない。またそれ以外の内面にある一物が祈りの妨げとなることがある。ここにも葛藤を感じながらも、「主よ、人を赦せないこの愚かな者を憐れんでください。心にある神の御心ではない問題を手放せないこの私を赦してください」と祈っていく。御言葉に従うからそう祈るのである。私たちはどうであろう。英国のジョージ・ミューラー(1805-1898年)は、信仰の祈り一つで二千人の孤児を養うことができた。聖書と神を徹底的に信じ祈りに生きた人なのである。