礼拝200405

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2020年4月5日 棕梠の主日礼拝 題:「受け入れない人々」
聖書箇所:マルコによる福音書6章1~6節 説教:丸大勝牧師
多くの人々は、キリストが神であり、救い主であることを信じようとはしない。キリストが私たちの罪のために十字架にかかられたことを知らず、また聞いても認めようとしない。ある人は、バカにし、ある人は、ナンセンスだと嘲笑う。実は、2000年前のナザレにもそのような人々がいた。イエスが公生涯に立ち上がり、ガリラヤからはじめて各地で神の国の福音を語り、奇跡の御業をもって多くの人々を癒やしてこられた。マルコ4章5章でもその様子が記されていた。主は会堂司ヤイロの娘を蘇らせた後、郷里ナザレに帰られた。ある安息日に会堂で教えられると多くの人々がその知恵と力に戸惑い驚いていた。しかし、群衆にとってそこまでである。彼らは、イエスのことを受け入れることはなかった。①「この人はただの大工だ」(3節) 石工、技術者、便利屋。単なる普通の労働者であることで軽蔑した。②「この人はマリヤの息子、我々はその妹弟たちを知っていて、一緒に生活しているではないか」(3節) 養父ヨセフはすでに死んでいなかった。イエスは家長として労働者の一人として家族のために日夜額に汗して泥まみれになって働いていたのであろう。ナザレの住民は彼らと一緒に平凡な生活を長年してきたのであり、何ら特別な家族でもなく、その長男イエスも普通の人間であった。この度のイエスの豹変は突然変異であり、気が変になったとしか思えなかったのである。「彼らはイエスにつまずいた」(3節)とは住民のイエスに対する偏見と軽蔑を表している言葉である。結果的に主はナザレでは、群衆の不信仰という心の大岩のゆえに、少数の病人を癒されたのみで力ある業を行うことができず、彼らの不信仰を驚き怪しんだ(6節)とある。これらのナザレ村の人々の魂の実態は現代人にも強烈なメッセージを伝えていると思う。それは、私たちの救い主に対する姿勢と態度をどう整えるのかということである。Who is Jesus?(イエスは誰か)の問いにどう真摯に答えるかによって、その人の人生の運命が決定づけられることをしっかりと心に刻んでおきたい。今週は、受難週である。神の子キリストが私たち人類の救いのために、十字架の道を進んで行かれた厳かな悲しみと苦しみの記念すべて一週間である。私たちは心の不信仰を取り除き主に向き合おう。