礼拝200412

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2020年4月12日 イースター主日礼拝 題:「弟子たちの派遣」
聖書箇所:マルコによる福音書6章7~13節 説教:丸大勝牧師
 「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにはわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。」(マタイ28:5-7) 主イエスは、実に弟子たちに約束されたように死の力を打ち破り復活された。この年も心から復活の主を褒め称えたい。さて、主はどうしてガリラヤに行けと言われたのだろうか。26章32節で散った羊をガリラヤに導き返すと予告しておられた。新約時代のパレスチナはガリラヤ、サマリヤ、ユダヤに区分されていた。ガリラヤは、ナフタリ山地にある異邦人の地方であった。そこにはユダヤ人以外の人々が多く住んでいた。主はそのような地から宣教を始められた。今朝の箇所での活動もガリラヤでの弟子たちの働きの記録である。彼らは二人ずつ遣わされて、権威が与えられ、人々に悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、大勢の病人をいやした。復活の主はそこになぜ行くように言われたのだろうか。ガリラヤはイスカリオテのユダ以外の弟子たちの出身地であった。ユダは失脚してもはやいなかった。11人の弟子たちはそこに招かれたのである。弟子たちは、どうしてもガリラヤに行かなければならなかったのか。①「異邦人のガリラヤ、暗黒に結んでいる民、死の地、死の陰に住んでいる人々、が大いなる光を見る」(4:14-16)の預言成就のためであった。かつて主の福音宣教により光を見た異邦人のガリラヤは、再び復活の主の大いなる光をうけるためである。②信仰の敗北者、躓いた腰抜けの弟子たちが、再びやり直すためである。③福音を携え行く弟子たちは、新たに使命が与えられて派遣される必要があった。私たちは、十字架で死んでしまったイエス・キリストではなく、墓を蹴破り勝利の復活をされた主に出会わなければならない。この生きた感動がなければ信仰生活はできない。キリスト信仰は、教説により成り立っているのではない。福音とは十字架の死と復活という事実である。主は今も生きて働いておられるのである(マルコ16:14-20)。あなたはそれを信じるか。