礼拝200503

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2020年5月3日 復活節第4主日礼拝 題:「イエスに触れる者」
聖書箇所:マルコによる福音書6章53~56節 説教:丸大勝牧師
五餅二魚の奇跡の後、主イエスは弟子たちを向こう岸のベツサイダに先に送り出されたのだが、強風のために舟のコースが変わり、ゲネサレに着いた。ガリラヤでの主のお働きは目覚ましく、人々は非常にめざとく主を見つけるとその地方をあまねく駆け巡り、どこへでも病人を連れて行こうとした。イエスは、民衆の中では動かしがたい地位を得ておられたのである。人々は、主から何かを得ようとして、執拗に要求してきたのである。「多くの人をいやされたので、病苦に悩む者が皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである」(マルコ3:10)。「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである」(マルコ5:28)。人々はまさにイエスからよきものを得るために、「上着のふさにでも、さわりたい」と病人を連れてきたのである。確かに主でなければ人に与えることができないものはある。その意味において、主は人々を招いてくださるお方である。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と。しかし、もしこの群衆の中に、得るだけではなく、与えるために来た者がわずかでもあったとするならば、得た後のそれぞれの人生がどのように変わったことであろうか。多くの場合、イエスから多大な恩を受けながら、自分たちの願うキリストではないと知るや否や、手の平を返して、「十字架につけよ」と叫んだのである。なんという醜態であろうか、と思われるが、果たして、私たちと無関係なのだろうか。「神を利用するために求める人」がいる。彼らは神が必要になるまで切羽詰まらなければ、決して神を思うことはない。そして、その祈りは要請であり、命令でさえある。「てるてるぼうず、てるぼうず、あした天気にしておくれ~きかぬば首をちょん切るぞ」とは、脅しである。神は、私たちの便利屋ではない。またドラえもんの「四次元ポケット」のように何でも欲しいものを出してもらえる都合のよい神ではない。大切な信仰的態度は、主に触れようとする者は、良きものを受けたならば、今度は応答する者として与える人になることである。「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒20:35)とあるとおりだ。また与えるために得る、といってもよい。今年は、主に応答して他者に与えよう。