礼拝200517

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2020年5月17日 復活節第6主日礼拝 題:「しるしを求める人々」
聖書箇所:マルコによる福音書8章11~13節 説教:丸大勝牧師
「きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かなければならない」(ルカ13:33)と、主イエスは語っておられる。この姿勢は、主の公生涯において常に貫かれた。先週の箇所から、イエスはツロ、シドンに移動され、デカポリスを通過して、再びガリラヤに戻られ、ダルマヌタの地方に行かれた。ここは、マタイ15:39によると、マガダン(マグダラ)とある。この町はマグダラのマリヤの故郷でガリラヤ湖の西岸にある。主の敵はどこにでもいる。いつも群衆に取り囲まれているイエスの面目を失墜させようと、パリサイ人が現れてしるしを見せるように迫った。主はこれまでの二年間、多くの病を癒し、五千人、四千人の食を与え奇跡を行われた。彼らはなおもしるしを求めたのである。これは、求道のために質問したのではなく、イエスを試みるためであった。その時、主は、「嘆息して」「深くため息をついて」「心の底から呻いて」言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが。しるしは今の時代には決して与えられない」(12節)と。「神がいるならば見せてみろ!」とは、よく現代人も口にするせりふであるが、それは、求道心があるから言うのではない。認めたくない。信じたくないのである。人間は基本的に神に対して背を向けている存在である。主は、マタイ16:4では、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める」と言っておられる。この時代にあって、原罪のゆえに全く心の目が塞がれている霊的状態なのである。そのようなパリサイ派の人々をあとに残して主は弟子たちとその場を去って行かれた。何か背筋がぞっとするような主の敵に対する態度である。舟の中でイエスは弟子たちに、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」(15節)と言われた。それは弟子たちが舟に乗る前に食事のパンを忘れたために主が言われたのではなく、パリサイの偽善的生き方とヘロデの世俗主義を警戒するように促されたのである。それが理解できなかった弟子たちも実は、この世に毒され密かに影響されていたことがわかる。現代に生きる私たちもこのパリサイのパン種とヘロデのパン種を警戒しなければならない。無防備であるならば、あの弟子たちと同じように、「なぜ、まだわからないのか、悟らないのか」(17節)と言われてしまうだろう。