礼拝200524

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2020年5月24日 復活節第7主日礼拝
題:「キリストに逆らわない者」
聖書箇所:マルコによる福音書9章38~41節 説教:丸大勝牧師
 「さすがキリストの弟子は素晴らしい!」と言いたいところであるが、主イエスの公生涯において選ばれた弟子たちは、そうではなかったようだ。イエスの弟子たちが最後まで苦しんだものは、「この中でだれが一番偉いのか」という卑しい心であった。それは、弟子として召されてから主と別れなければならない時まで基本的に変わることはなかった。出世欲、支配欲、権力欲、名誉欲などが本能の争いとして彼らの内からこみあげてきた。マルコ9:33-37においてもその場面が記されている。主はそのような弟子たちの争いと傲慢に対して訓戒を与えられた。その流れでヨハネが口を開いた(38節)。それは一見先のイエスとの会話と関係がないように思われるが、実は弟子たちの内面にある肉的衝動と無関係ではなかった。イエスの名を唱えて悪霊を追い出すとは、主の権威を借りて、悪霊を追い出すことを意味している。初代教会にユダヤ人のまじない師が悪霊につかれている者にイエスの名を唱えて悪霊払いをしていたことが記録されているが、おそらく主の時代にも同じことがあったのであろう。弟子たちは、その人たちが自分たちの仲間ではないので、イエスの名を使うことを止めさせた。これは一種の独善主義、縄張り派閥主義である。自分たちだけが正しいと思うことは人間の陥りやすい過ちであろうが、この弟子たちにとっては、「俺たちを差し置いて、尊いイエスさまのお名前を使うとは何事か!」と、党派心丸出しで自分たちとの関わりで憤慨して反対したのである。そこで主は彼らの偏狭な態度を戒められた(39,40節)。主の名を唱えて奇跡を行うことができるほどの者は、少なくとも、主に反対する者ではない、と。キリストに逆らわない者であるならば、「やめさせないがよい」と言われたのである。正しく主は党派心なく派閥意識はなかったのである。ここで教えられることは、キリスト教派間の裁き合いや教会員同士の分裂分派や仲間割れがないように自戒せよ、との主の注意であり警告であることを受けとめなければならない。向かうもの敵なしの百獣の王ライオンも、自分の体に住む寄生虫により命を落とすと言われている。私たちも外側の力には強いが内側の力には脆い傾向があるのではなかろうか。主の祈りに生かされて行こう(ヨハネ17:20-26)。