礼拝200614

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2020年6月14日 三位一体第2主日礼拝 題:「権威について」
聖書箇所:マルコによる福音書11章27~33節 説教:丸大勝牧師
「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子たちなのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:31-32)とある。誰でも幸福になりたい。祝福された人生を歩みたい、と願っていることだろう。しかし、むやみやたらにそれらを求めても得ることはできない。大事なことは、神が提供しておられる真理に対して、人がどのように、向き合い対座するのかが問われている。さて、イエスは、十字架を前に、祭司長、律法学者、長老たちと論争された。この意見の対立が、益々主に対する敵意を燃え上がらせることになる。国会議員の各グループの代表者が、イエスのところに来て、この度の宮きよめを何の権威によってしたのかを質問した。すると、主は逆に彼らに質問した。「ヨハネのバプテスマは天からであったか。人からであったか、答えなさい」(30節)と。それに答えたならば、何の権威によってこれらのことをするのか答えよう、と言われた。①天から来たとは、神から派遣されたことを意味する。②人から来たとは、人間的権威により行動したことを意味する。ここで彼らはジレンマに陥ってしまう。天からであると答えると、ヨハネが天から派遣された預言者であることを認めることになり、にも拘らず、ヨハネを信じなかった過ちを指摘されることを恐れた。また人からと答えるならば、群衆はヨハネが神からの預言者であると信じていたので承知しない。結局、祭司長たちは、自分たちの安泰のみを考えて真理を素直に認めようとはせず、「わたしたちにはわかりません(33節)としらばっくれた。そこで、主も彼らの質問に答えることはなかった。彼らは真の真理の探究者ではなかった。単にイエスを困らせようとしただけである。それは悪意以外のものではなかった。真理に不真面目な者に主は丁寧に対応されない。ここに権威者としてのお姿が暗に現れているといえよう。神の家(教会)では、キリストだけが独占的に権威をもって語られることを信じ認める場所である。神の家は、会堂ではない。個々の信徒が日常的に、祈りつつ神とキリストの教えに服するところである。そこに教会があるのだ。教会で語られる真理に対して、私たちは、どのように対座するのであろう。真理は自由を与えるのだ。