礼拝200621

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2020年6月21日 三位一体第3主日礼拝
題:「ぶどう園の農夫のたとえ」
聖書箇所:マルコによる福音書12章1~12節 説教:丸大勝牧師
父の日・創立86周年記念礼拝を迎えて示されることをお伝えしたい。祝福される父親、歴史を積み重ねた教会は、へりくだって信仰を持って生きることが肝要である。この「ぶどう園の譬え話」にその原則を見ることができる。ぶどう園の主人は神である。ぶどう園そのものはイスラエルの民である。農夫たちは、イスラエルの支配者たちである。主人が派遣した僕たちとは、神の預言者たちである。愛子とは、イエスご自身である。神は、ユダヤ人に多くの恵みを与え、カナンの地を預けた。ところが時期が来ても実を結ばず、使いの者や愛する息子さえも殺した。つまり、旧約聖書の預言者や御子イエスを殺したことを示唆しているのだ。前者は歴史的なことであり、後者はこれから起こることを指示している。事実、大祭司たちは礼拝すべき神殿を預けられていた。しかし、そこは暴利の場となり、彼らの私服を肥やす悪の巣になり下がっていた。それを本来の場に戻すために主が「宮きよめ」をしたとしても無意味であった。祭司たちは、積極的にイエスに逆らった。それは悪い農夫そのものである。そして、この週、ユダヤ人は一斉にイエス・キリストを十字架に追いやっていくのである。ここで主が語られたとおりになる。大祭司たちは、自分たちこそアブラハムの神に対して信仰深いと思い込んでいたが、実際は違っていた。彼らは原罪によって心の目は閉ざされて何も見えていなかった。結局、良かれと思って進んで行く道は滅びの道でしかなかった。いつも私たちは本質を問うということが重要であることを忘れてはならない。「私は今祈っているが、本当に真に祈っているのか」「私は今礼拝しているが、本当に真の礼拝をささげているのだろうか」「私に大祭司や律法学者やユダヤの長老たちのような霊的死はないのだろうか」「私は霊的に生かされ命を込めて祈り、礼拝しているのだろうか」、実にそのような問いかけの中で、自らを自己吟味しなければならない。クリスチャンにとって信仰年月が長いということが重要なのでない。教会にとって教会歴史が長いのが誇りなのではない。そこに信仰の結実があるかということである。「ぶどうの実」は実っているかどうかである。主は言われた。「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」(ヨハネ15:16)と。