礼拝200927

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 2020年9月27日 三位一体第17主日礼拝 題:「強さと弱さ」
聖書箇所:エペソ人への手紙6章10~18節 説教:丸大勝牧師
パウロは、愛してやまないエペソ教会にこの手紙を書き送った。1章から3章までは、キリスト信仰の重大な教理についての教え、4章から6章9節では、驚くべき天上の座につかせて頂いた者として、その召された召しにふさわしく生活をすることについて教え諭した。今朝は、その次である。「最後に言う」(10節)とは、どういう意味なのだろう。手紙の最後になってきたということであろうか。そうではなく、どうしても最後に伝えていなければならない重要なメッセージがあるという意味である。私たち地上にあって神の子である信者が生きていくには戦いがあるということを知らねばならない。霊的戦いのための備えの教えが18節まで語られている。私たちは生まれながらの肉の力で強くはなれない。思えば何と自分は弱いのだろうか、と痛感させられることがある。そんな自分のことが情けなくなることも度々である。そんなエペソと現代の信者に対してパウロは心熱くして語っているのである。実は私たち人間は悪魔に対して最初から弱い。始祖アダムとエバは悪魔に負けてしまったではないか。まずは強がらないことである。パウロは、強くなる秘訣として、「御霊に満たされるべし」(5:18)と語っている。御霊が私たちに満たされる時、内なる人は強くされ、どんなに弱く、失敗を重ねてきた人も、力強い証人となる。そして、聖霊は継続的勝利のために祈りの世界をひらいてくださっている。「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」(18節)と。その祈りの三つの特徴は、①継続的祈り。②熱心な祈り。③没我的祈り。初代教会の信者たちは、どんな時も祈り、熱心に祈り、聖徒たちのためにとりなしていた。迫害により牢獄に囚われたペテロのために「教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた」(使徒12:5)とある。ペテロは祈りに答えられ解放された。信仰の父と呼ばれたアブラハムも祈りの人であった。しかし、このような祈りの人も祈りをやめると失敗する。私たちは、悪魔に対抗するために神の武具で身を固めても(13-17節)、もし聖霊により祈り続けないと足元をすくわれてしまう。祈らない信者は空虚であり、力がない。祈らない教会もみじめである。さあ祈ろうではないか。