礼拝R30321

このエントリーをはてなブックマークに追加
 2021年3月21日 四旬節第5主日礼拝 題:「香油のかおり」
聖書箇所:ヨハネによる福音書12章3~8節 説教:丸大勝牧師
いよいよ、黙示録の最後の学びとなる。この22章6節から21節までは、この書の結論である。さらに細かく分解すると、6-11 天使の告知、12-20a キリストの約束と警告、20b-21 ヨハネの祝祷。先週、1節から5節までについては、すでに見てきた。新天新地(天国)の聖都エルサレムは壮麗であるだけではなく、そこに神の命があり、いやしがあり、光がある。まさにそこは、贖いの完成であるエデンの園の回復を意味している。そして、これまでのすべての黙示を受けて、6,7節は、特別に注意を促している。ここは、御使とヨハネと主イエスの言葉が混在している。「これらの言葉は信ずべきであり、まことである」と御使は言った。これは、21:5の繰り返しである。それほどに黙示録の内容は人類にとって重要であることを示している。そして、主イエスは再臨のキリストとして、「すぐに来る」と言われた。この「来る」というエルコマイという原語は、「来たりつつある」という意味で使われている。これは本書に6回記されている(3:2,11,16:15,22:7,12,20)。それだから、黙示録を読み信ずべきなのである。20章の最後の審判により滅ぼされず天国に行くべき者は誰か。それは、「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(14節)とあるように、主の十字架の血潮が自分の罪の贖いのために流されたことを信じ、罪を悔い改めて、心の洗いを受けることである。主とご宝血をきよめの力あるものとして信じて受け取ることである。17節には、教会時代にあってなおも人々を招く言葉がある。「かわいている者は、ここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、値なしにそれを受けるがよい」とある。難行苦行にあらず、修行にあらず、ただ信じて受け取るだけで救われるのである。さて、キリストの十字架と自分との関係を香油を注ぐことによって表現した女がいた。それは、ベタニヤのマリヤである。主は弟子たちに度々十字架刑について語られたが、皆はそれを譬えの一つ程度にしか理解していなかった。だが、思慮深いマリヤだけはそうではなかった。「これは譬えではない。本当のことだ」と。彼女は、主が油注がれた者(キリスト)として葬りの備えをなし、天国に行くために救い主を自ら告白したのだ。