礼拝R30328

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 2021年3月28日 棕梠の主日礼拝 題:「ろばの子に乗って」
聖書箇所:ヨハネによる福音書12章12~16節 説教:丸大勝牧師
教会暦によると、今日から受難週に入る。主イエスのご苦難の歩みを辿りながら信仰的な一週間を過ごすのである。今日は、棕櫚の主日と呼ばれている。主イエスがその年の過越の祭を前にした安息日の翌日の日曜日に、エルサレムに入城されたのである。民衆は、手に手に棕櫚の葉を打ち振り、歓呼の声をあげて、ユダヤ人の王として迎えたのである(マタイ21:1-11,マルコ11:1-10,ルカ19:38)。ヨハネとマタイは、これはゼカリヤ9:9の預言の成就であることを記している。これは、イエスが久しく預言されてきたメシヤであることを公に示されたことを意味している。主はろばの子に乗って都にお入りになられたのだが、これは主の謙遜さと、メシヤの王位を宣言するものであった。一方、黙示録19:11の再臨のキリストは「白い馬」に乗って来られることが預言されている。それは勝利の象徴である。世界は今後それに向かって動いていくのであるが、そこに至るための準備として主イエスはどうしても人類の救いのご計画を実行さなければならなかった。その始まりが平和の君としてろばの子による入城なのである。人々は、「ホサナ!」と叫んだ。これは、「どうぞ救ってください」という意味だが、ここでは「万歳」の歓声であろう。熱狂した民衆はイエスを偉大な民族的英雄としてローマの支配から解放するメシヤとして迎えたのである。しかしながら、イエスは、多くのユダヤ人の期待に答えることはなかった。もともと主はそのような救い主ではなかった。主は霊的な世界レベルの救いを人類に与えるためにこの世に来られたのである。イエスが民衆の望みを実現するつもりがないことがわかると彼らは手のひらを返し敵となった。5日後、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」(19:15)と一斉に叫んだ。歓呼の声は呪いの怒号となったのである。何と人間の本性は罪深いものか改めて思わされる。そして、ユダヤ人の願うとおりイエスは、十字架にあげられさらし者になられたのである。16節の言葉は特に傾聴に値する。「弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起こした」と。人間の原罪が罪なき主イエスを追いやっていくのである。