礼拝R30502

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 2021年5月2日 復活節第5主日礼拝 題:「イエスを思いみよ」
聖書箇所:ヘブル人への手紙3章1~13節 説教:丸大勝牧師
イタリヤのユダヤ人キリスト者は、まだ充分備えられた信仰者ではなかった。特に教理的に未熟であった。この3章の著者の言葉は、その意味において今日の日本の教会にも迫ってくるものがある。分解1-6 モーセにまさるキリスト。ユダヤ人のキリスト者は信仰的に初歩であった(5:11-13)。キリストとモーセとの関係も知らず、モーセが立法者であり、立場的に上で、イエスは他の民族にモーセの律法を実施する者と考えており、イエスの立場はモーセの下であると思っていたようだ。全く逆であったのである。2節の「神の家」とは、神の民のことである。神の家が立派であっても、その家を建てる方がさらに賞賛される。モーセはその家のために貢献したが、彼は神の僕にしか過ぎない。しかし、イエスは、神の忠実な御子として、神の家のすべての管理が任されているのである。主こそモーセにまさるのだ。このお方を大祭司なる救い主として、望みと確信を最後まで持ち続けるならば人は神の家であり続けることができる。だから「主を思いみよ」(1節)。7-11 歴史におけるイスラエルの失敗による警告。著者は、イスラエルの歴史により、神の御声を聞くことと、心の頑なさを警告している。モーセの語る言葉に逆らい結局多くの民は約束の地を踏むことはなかった(民数14:-21)。なおさら、キリストに聞き従わなければ救われることはない。悲しきかな、終末時代の地上再臨の直前までユダヤ人は民族レベルでイエスを拒否し続けるのである。12-4:1 歴史に学び不信仰と不従順を警戒すべきこと。イスラエルは、大勢の民の滅びにより主に対してどのように対座しなければならないかを学んだはずである。民は二と轍を踏まないためにもどうすべきなのか。それは、「気をつけること」である。これは、「心を見張ること」「慎むこと」「強く心に留めること」である(2:1,12:15)。なぜならば、同じように選民でありながら、新イスラエル(教会)に属しながら、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかもしれない」(12節)からである。離れない法はあるか。それは、まず常に心を頑なにしないことである。そして、孤立しないで、信仰の慰めと励ましのために、共同体におり続けることである(13節,10:25)。「人がひとりでいるのは良くない」(創2:18)とある。