礼拝R30509

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 2021年5月9日 母の日主日礼拝 題:「恵みの御座」
聖書箇所:ヘブル人への手紙4章14~16節 説教:丸大勝牧師
キリストの救いに与るとは、全き安息に入ることである。分解1-11 安息に入るための警告と勧告。イスラエルの民は、アブラハム契約により導かれてきた特選の民族でありながら、出エジプトの救いを与えられたにも拘わらず、2章にあったように不信仰のゆえに約束の地カナンに入ることはできなかった。霊的な意味でカナンの地は聖潔の生涯の模型である。信者は救いのみならず聖潔の生涯に入らねば神の栄光を顕すことはできない。「はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しよう(畏れる心)」(1節)とある。神を畏れかしこむ姿勢がなければ、人は頑固で不従順なのである。「この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、・・落ちて行く者が出るかもしれない」(11節)。「きょう」という日の素直さが重要なのだ。12-13 すべてをあらわにされる裁きの神。神の逆らう心は原罪により強化されている。それは神の言葉によって砕かれなければならない。真正面から取り組むときに、神の言葉は私たちを断罪し打ちのめす。その罪に気づくならば、主イエスが十字架にそれを引き受けて自分の代わりに罰を受けてくださったことがわかると、神の前にひれ伏すのみである。14-16 同情ある大祭司と恵みの御座。「だれが、この罪のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ7:24)と、パウロは吐露した。私たちとて同じであろう。しかし、「わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」(14節)とある。罪に泣く者のために、大祭司なるイエス・キリストがおられるのである。必要な恵みと力と助けを受けるために、「はばかることなく恵みの御座に近づく」(16節)のである。これは遠慮なくという意味である。主は私たちの弱さを思いやることのできないお方ではない。主ご自身、試練を受けて苦しまれたからだ。それゆえに、私たちはいかに弱くても、大胆に近づいて、恵みに与って時機を得た助けを受けることが許されているのである。恵みの御座とはどこか。それは、天における父なる神の右の座である。そこに大祭司なるイエスが座しておられる。地上での人類に対するすべての救いと贖いの御業を完成されたお方だけが座すところである。私たちは、そこに祈りにより進み出ることができるのである。何と感謝なことであろうか。