礼拝R30620

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 2021年6月20日 父の日・創立記念礼拝 題:「大きな報い」
聖書箇所:ヘブル人への手紙10章25~36節 説教:丸大勝牧師
父の日と創立記念を祝い礼拝をささげよう。大祭司キリスト論が、1節から18節で終わる。19節からは、実際的な部分で信仰生活の勧告になっている。さて、この章でもキリストの「ただ一度」(11節)の出来事により、一度で全部という永遠の救いが宣言されている。そのことで罪人が贖われて聖なる者にされているのである。そして、このゆえに贖われた者は、「信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づく」ことができるのだ(22節)。分解1-4 旧約の不完全な犠牲。5-10 神の御旨に適うキリストの犠牲。11-14 完全な犠牲と永遠の救い。15-18 その聖霊のあかし。19節からは、実際生活の勧めである。19-25 新しい生きた道に入り愛の実行と礼拝に励むこと。重要なことは、集会に出席することである。教会は共同体の信徒の交わりであるが、そこに主が臨在される(マタイ18:20)。そこで愛の交わりを実践することができる。兄弟姉妹の交わりをもつことによって、共に主を見つめてそこに共同の交わりがある。それが聖書の示す交わりなのである。時々、個人的に祈り聖書を読んでいるならば信仰は維持され大丈夫であるようなことを言う人がいるが、それは、聖書の教えとは違う。信徒は、キリストのからだである教会に集い、礼拝で絶えず心を洗い、つまり贖いの恵みを確認することがどうしても必要なのだ。まさに礼拝においてこそ信徒は神からの益を受け霊的に成長していくのである。またそこで希望に生きる者とされる(23節)。実社会において、失望すること多々あるだろう。しかし、臨在の主は望みをお与えくださる。26-39 キリストの血潮と聖霊を侮る者たちに対する警告と忍耐の信仰の勧告。大変厳しい警告であるが、信者が罪を犯し続けたり、キリストを踏みつけたり、聖霊を侮るような場合は、重い刑罰を受けると記されている。怖い話である。ではどういうことなのか。それは、神の無条件・無制限の赦しを味わいながら、途中で「もう自分には罪の赦しはいらない」と、公然と拒否するような態度をとることだ。御霊を侮る、とは、「私の罪を赦してください」という祈りの必要を感じないことである。主から提供されている良きものを自発的に退けること。つまり、自分から救い主との関係を断つことだ。それは自己責任である。主の報いを信じて忍耐しよう。