礼拝R30704

このエントリーをはてなブックマークに追加
 2021年7月4日 三位一体第6主日礼拝 題:「主の訓練」
聖書箇所:ヘブル人への手紙12章5~13節 説教:丸大勝牧師
神学校の恩師、向後昇太郎師のヨブ記の講義は、とても印象深いものであった。今もその様子が瞼を閉じると浮かんでくる。「人生をつきつめて考えるならば、苦難と試練についての明確な答えを持っているか否かにかかっている。それは人生究極のテーマである」と語っておられた。ヨブ記は数年かけて祈祷会で学んできたので、今朝はこの章に集中しよう。分解1-4 信仰の目標と忍耐に関する勧め。5-13 父の懲らしめとそれに関する勧め。14-17 聖潔に関する勧めと警告。18-24 旧約と新約の対照と新約の特権。25-29 背教に対する警告。さて、著者は困難や苦難を耐え忍ぶ理由として、過去の聖徒たちのことを挙げて証した。さらにこの12章の前半では、キリストが耐え忍んだ苦難に比べれば、今の苦難など取るに足りないことを指摘した。そして「イエスを仰ぎ見つつ走ろう」(2節)と勧めている。さらに進んで苦難は訓練として神から与えられたものであると語っていることに注目したい。5,6節に箴言3:11,12が引用されている。「訓練」と「むち打たれる」の意味は、「訓育する。躾ける」ことである。この訓練は神の愛から出たものである。私たちを破壊する目的などは一切ない。私たちの益をはかっているものなのだ。却って「たましいの父は、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」(10節)。そして、その結果「平安な義《意図・思想・行為・神との一致・正しく恵まれている生活》の実を結ばせる」(11節)というのである。それゆえに、自己憐憫や怒りに任せて神を呪うのではなく、「あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい」(12節)とあるように、神の御約束を信じて手に握り、神の御前に跪きひざで祈ることによって、その悲しみと苦しみを乗り越えて行こうではないか。イスラエルの信仰の父アブラハムも、壮絶な主の訓練を受けた(創世記22:1-14)。不可解極まりない命令が一人の父親に下る。それは、主が契約の子であるはずのイサクを、「燔祭(献身の意、レビ記1章)としてささげなさい」というものだ。その信じられない要求によりアブラハムは揺さぶられる。だが苦悩の末、彼に信仰が来た。すべてを神に委ねたのである(11:17-19)。アブラハムは主の訓練に与り信仰が練りきよめられたのである。ハレルヤ!!