礼拝R30725

このエントリーをはてなブックマークに追加
 2021年7月25日 三位一体第9主日礼拝 題:「信仰と行い」
聖書箇所:ヤコブの手紙2章14~26節 説教者:丸大勝牧師
ヤコブの手紙は、様々な主題を切れきれの格言として記されているが、この2章では全体として信仰と行いのことが取り扱われている。基本的に留意していなければならないことは、ヤコブは信仰と行いを対比して問題にしているのではなく、信仰は行いと一体であって二輪の両輪のようなものであることを示そうとしている。分解1-13 差別についての教え。14-26 信仰と行いについての教え。この章で最も重要な鍵言葉になっているのは、「義とされた」「義と認められた」(21,23,24,25節)である。これを別の表現で「義認」という。「聖であり義なる神に罪のない正しい者として認められること」である。さて、キリスト教において聖書が語っている救いの信仰とは何であろうか。一言葉でいうならば、それは、「罪からの赦しと救いの信仰」であるといえよう。①罪とは何か。この罪は、ギリシャ語で「ハマルティア」という。それは、「的外れ」という意味である。創造主なるお方である神を自分の人生から追い出している心の態度のこと。神から遠く離れている状態。②神の思いと人の思い(イザヤ55:8,9)。日本人が罪という言葉を聞く時、バチを与える神々とか、祟りをもたらす恐ろしい神々を連想するのではないだろうか。「触らぬ神に祟りなし」という言葉もある。面倒なことに関わらない方がよいということである。しかし、神の思いと人の思いとは異なる。③神は罪の責任を人間に求め断罪されるお方ではなく、幸せを願っておられる。④どのような罪も赦し忘れてくださる(詩篇103:12,ミカ7:19,イザヤ43:25)。⑤修行や善行により救われるのではなくキリスト信仰により義と認め救ってくださる。人間の救いの条件は、すべてキリストが必要を満たし完成された。もはや人間が加えるものはない。さあ、この「義認」の源は、神の恩寵(神の愛と憐れみ)。土台は、十字架の贖い(救い主の十字架によりご自身の命に代えて救われた)。方法は、信仰による。そして、その信仰の証拠として、行いが伴うのである。私たちは、このヤコブの手紙を通して、もう一度信仰と行いの関係を改めて確認したい。信仰がないのによい行いを求めるならば苦しくなるだろう。よい行いをして救われようとすることもできないことだ。まず、自分の心に神の救いの幸せを受け取ることである。