礼拝R30801

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 2021年8月1日 平和主日礼拝 題:「練達した者」
聖書箇所:ヤコブの手紙3章1~18節 説教者:丸大勝牧師
平和の主を心から礼拝しよう。さて、この手紙が書かれた時代において、ユダヤ家庭では、子どもをラビ(教師)にすることが大きな念願であったようだ。若者たちもラビに伴う権威と尊敬を我がものとしたいと熱望していた。ラビには、特別な地位を与えられるからである。しかし、主は弟子たちに「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と言われたことがあるが、ここでのヤコブの言葉もそれに似ている。この章では、教師の主題の下、言語の知恵深い用い方と教師の資格を解いている。分解1-12 舌を制すること。13-18 真実の知恵と偽りの知恵。ヤコブは、軽々に教師になりたいなどと考えてはならないと語る。宗教上の教師は、特別な神の召命感がなければならないし、主の弟子としての学びと訓練が求められる。誉だけ求めてもそれでは教師として通用しない。特に教師は、人を教え導く働きにつくので、言葉の使い方が大きな問題になる。それゆえに、「他の人よりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっている」(1節)ので、教師にならないようにと言うのだ。そこで、それに怖気づいた信者たちが誰も教師になければ教会は大変なことになってしまうだろう。福音を語る者、教える者がいなくなって神の働きが留められることになるからだ。さて、ヤコブは舌の教訓を語っている。三つの譬え。①くつわと舵(3,4)。言葉だけで他者が動く。②火と毒(6-10)。小さな言葉で人を生かし殺す。③泉と木(11,12)。言葉は内面を露わにする。主は「木はその実でわかる」(マタイ12:33)と言われた。本章は言葉で明らかになるものだ。もし人が言葉において練達した者になるならば、多くの人々を生かすことができるようになるだろう。13節に、①「知恵がある人」、②「物わかりのよい人(賢い人)」とある。前者は、当時の教師の別の呼び方で、後者は、専門知識のある人のことである。その人は、「知恵にかなう・・よい生活をよって示しなさい」と言う。では人間的に賢いとそうなれるのか。そうではない。それは「上から来る」(17,18)ことが示されている。その知恵は、単なる地上的なものではなく、神から与えられる知恵である。これこそ聖潔(きよめ)である。イザヤの口が潔められたように(イザヤ6:1-8)、私たちも心が清くされ祝福された唇を持とうではないか。