礼拝R30926

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 2021年9月26日 三位一体第18主日礼拝 題:「喜びに溢れるため」
聖書箇所:ペテロの第1の手紙4章12~19節 説教者:丸大勝牧師
教会での説教に笑いが求められてくるようになってきた頃、「笑いたければ寄席にいけばよい。真の喜びはそこにはない」と、神学校の先輩の牧師が語っていた。そのとおりだと思う。しかし、今日の喜びの意味も多様であり価値が低い喜びもある。初代教会において、「喜ぶ」ことは生半可なものではなかった。キリスト者が置かれていた環境が厳しい迫害下であったからだ。本書には試練についての御言が四回出てくる(1:6,2:12,3:16,4:12)。ペテロは彼らを励ますためにこの手紙を書いたのである。分解1-6 苦難と神の御旨を行う生涯。7-11 終わりの時代でのキリスト者の態度。12-19 苦難のための心の備え。この4章では、終末的な観点から苦難を喜ぶことが勧められている。平和で安定した時代にあって主に従う者にさえ、神の栄光を与えてくださるのであれば、主の苦難に与っている者にはどれほどの報いが用意されていることだろう(13-14,16節)。「主の来臨の時まで耐え忍びなさい」(ヤコブ5:7)とある。大いなる喜びのために天の報いを待ち望むのである。二つ目のことは、主はキリスト者に対して孤独で過酷な信仰の戦いを全うせよ、と言われるのではない。主は愛する者に「道連れ」を与えられる。それは、ペンテコステの霊である。「キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである」(14節)。私たちは、苦難とともに御霊がおられることを忘れてはならない。聖霊は、「慰め主」として試練のただ中において働き給う。私たちは決して一人で戦うのではない。聖霊は、戦う教会を守り助け導かれる。また執成してくださる(ローマ8:26)。そして、主により信仰に立つならば、「不動のものとして下さる」(5:10)のである。「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対して偽って様々な悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてはあなたがたの受ける報い大きい」(マタイ5:1112)とは、キリスト者が幸福な者、祝福された者、と呼ばれている。そこに常に聖霊がその人と共におられるので、信仰者にとって、苦難はもはや不幸で破壊的な打撃をもたらすものではなくなる。ヨセフ、ヨブ、パウロなどがその証人である。