エッセイNo2

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 ・・・ 牧師エッセイNo2 ・・・

 祈りの人、ジョージ・ミューラーは信仰の祈り一つで二千人の孤児を養うことができた人として、よく知られている。彼の生涯の秘訣、祈りの五つの信条がある。

 

1.    どんな祝福を求める時でも、主イエス・キリストの功績と仲保に全面的に依存すること(信頼の祈り)

2.    すべての知っている罪から離れること。わたしたちの心のよこしまなものが残っていたら、主はわたしたちの祈りに耳傾けてくださらない。もしもそのままわたしたちの祈りを聞いてくださったとしたら、わたしたちの罪を容認することになってしまうからである(聖潔の祈り)

3.    堅く誓われた神の約束のみ言葉を信じること。約束された神を信じないということは、とりもなおさず神を偽り者とし、神を偽証人とすることになるからである(み言葉に立つ祈り)

4.    神の御心と一致した祈りであること。わたしたちの動機は敬虔なものでなければならない。わたしたち自身の欲望を遂げる目的で、神に何かを求めるようなことがあってはならない(謙遜な祈り)

5.    執拗にささげること。農夫が収穫を求めて長い間、忍耐強く待つように、わたしたちもただ神のために働くだけではなく、神の働きを待たなければならない(忍耐の祈り)

 

ミューラーは、このような祈りによって素晴らしい神の栄光の御業に与る者となった。

わたしたちの個人的な祈りの生活において、また公的な祈りの生活において、彼の祈りが身につくならば何と幸いであろうか。そこには、暖かい愛の交わりがあり、生き生きとした福音の躍動する喜びがある。

 

 さて、教会にとって祈祷会は大切である、とよく言われるが、なかなかふるわないのも教会の祈り会である。祈祷会が軽視されているとするならば、その理由は教会形成における祈祷会の位置づけが明確でないからである、と聞く。確かに祈祷会を教会論的に受けとめる時、一年に一度も祈祷会を守らずにいてよいということにはならないと思われる。

 

   祈祷会とは共同体である。神に選び出された信徒は、教会の生命共同体として生かされている。信徒は祈祷会の場に共に集まることによってそのことを自覚し、確認しながら慰め励まし合うのである。

   祈祷会とは、信仰告白である。主イエスの聖名によって集められた者たちが、共に祈り、主を告白し合うのである。聖霊はそこに働き、わたしたちの祈りの群を恵みに浸す。み言葉と聖霊に養われる時、わたしたちは惜しむことなく、キリストのために働く者と変えられていくのである。

   祈祷会とは、信徒の神への応答の時である。み言葉によるメッセージをただ聴く者ではなく、傾聴して主に応答するのである。受け身の姿勢から自立した信仰に変えられていくのである。

 私たちの教会が、益々御心に適った祈りの群として成長していくように願う。