礼拝R31024

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 2021年10月24日 三位一体第22主日礼拝 題:「終わりの時」
聖書箇所:ペテロの第2の手紙3章1~13節 説教者:丸大勝牧師
現代人は、「預言」という言葉を聞くだけで鼻であしらうようなことがある。しかし、その預言が信頼に値するものであり、それが歴史になっているとするならば、態度が一新するのではないか。妄信とは信じる根拠がないのに単に漠然と信じることを言うが、聖書預言は信じるべき神の真理の言葉である。ペテロは、初代教会において、偽教師たちの間違った教えを警戒するように語りかける。異端者は、聖なる預言者たちが語った言葉と使徒たちの教えを否定した(2節)。教会は、すでに与えられている良きものを思い起こし守っていくことによって異端の影響と呪縛に陥ることはない。ペテロは、この章で「愛する者たちよ」(1,8,14,17節)と教会に真の知識の上に立ち、主の再臨を希望として生きることを切々と語っている。分解1-2 希望の基。3-4 希望への不敬虔な態度。5-10 希望の確証。11-17 希望による生き方。18 結論的な勧めと祈り。さて、私たちは正しい信仰としてキリストの再臨があることを信じているだろうか。偽教師たちは、「主の再臨の約束はどうなったのか」(4節)と言って、信者をあざけっていた。パウロも当時の同じ問題について警告している(第二テサロニケなど)。ペテロは、主イエスの言葉を決して忘れてはいなかったのである(マタイ24:32-39)。主のお言葉は、必ず実現することを彼は確信していた。再臨を否定することは、主を慕う心がなく、約束を重んじることなく、またあざける者と同じように、見えるところで判断するからである(4節)。主は、黙示録22:20で、「わたしはすぐに来る」と言われた。ヘブル10:37では、「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」とも記されている。これらの預言の言葉は、その日が何年何月何日何時何分なのかを示すものではなく、「いつ起こってもよい」という意味なのである。主は、「ひとりも滅びることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み」(9節)とあるように、ただ待っておられるのである。主の驚くべき忍耐は何とありがたいことであろうか。主の忍耐は人の救いのためなのだ。「主の日は盗人のように襲って来る」(10節)とある。それまでは、「恵みの時、救いの日」である(第二コリント6:2)。光のある間に、私たちは福音をこの世に向けて宣べ伝えなければならない。