礼拝R31031

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 2021年10月31日 三位一体第23主日礼拝 題:「光の中を歩く」
聖書箇所:ヨハネの第1の手紙1章1~10節 説教者:丸大勝牧師
この手紙は、ヨハネ(ゼベダイの子)が書いたエペソ付近の小アジアにある諸教会に宛てられた回覧的な手紙である。福音宣教は、AD60年から70年ほどまでに当時の世界に拡大し、ローマ帝国の多くの地方に影響をもたらした。それと共に、純粋な福音の根本を否定と異教化する異端的思想や哲学が横行していた。ヨハネは、AD80年の後半か、90年代前半頃(ヨハネによる福音書の後、黙示録の前)にエペソにおいて、正しい福音の教理を示し、異端に対する警告を与えるために執筆したと思われる。分解1-4 キリストの証と目的。5-7 神の光の中を歩む。8-10 罪の赦しと聖潔(きよめ)。さて、ヨハネはキリストの公生涯においても、常にそば近くにいた愛弟子であり、友でもあり、十字架の主から母マリヤの扶養を託された人物でもあった。この章の前半は感動的である。この世には、人間の宗教心が考えて生み出した願望や理想による架空の存在として信仰の対象がある。そこに信仰心は向けられるかもしれないが、そこに実体しない。それに対して、私たちの主イエスは全く違っている。主は歴史的に存在されたお方であり、弟子たちと群衆を慈しみの御目で見つめ語り聞かせられ、必要ならば御手を触れられ祝福された。私たちの救い主は、宗教の教祖として教えを残されたのではない。主は事実として神が人間としてこの世に生まれ、十字架の死と復活の出来事のゆえに、私たちの救いと贖いを全うされ完成された神なのである。ここに感動がある。「神は愛である。ここに愛がある」(4:8,10)とあるとおりだ。私たちが、毎週イエスが復活された記念の主日に神を礼拝するのは、主の愛に感動し応答しているのである。もしこの感動がなくなればそれはもはや律法になってしまい。強制されるもの、お勤めだからするもの、喜びが消えたものとなってしまう。それでは、神に申し訳ないのではないだろうか。そこで日ごと週ごとの主との生きた交わりがどうしても必要になってくる。キリストが受肉し聖なる父なる神と人間との間に立ち、ご自身の命にかけて、とりなし、和解を与えてくださった目的は、私たちを父なる神との交わりに与る者とされることであった。それは感動である。もしそれが失われたならば、神の光に戻り再び血潮の洗いを受けることだ(7節)。