礼拝R31107

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 2021年11月7日 召天者合同記念礼拝 題:「アブラハムの子」
聖書箇所:ルカによる福音書19章1~10節 説教:丸大勝牧師
「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)。これは、キリスト教会が初代教会時代から確かな希望として継承されてきた信仰である。それは、キリスト亡き後、彼の弟子たちが教会会議を開いてクリスチャンは死んでから天国に行ったことにしよう、と相談して決めたのではない。この信仰は、決して古より人間の願望から生み出したものではない。主イエスの公生涯での約束であった(ヨハネ14:1-3)。「あなたがたのために、場所を用意しに行く。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と言われた。これを根拠に、教会はキリストの救いに与った者として死の向こう側に永遠の命と天の御国があることを信じてきたのである。これは今も変わることのない、はっきりとした、私たちの死後行くべき帰着点である。今朝の召天者合同記念礼拝において偲ぶ方々は、実にこの神の国に召されているのである。さて、今回の聖書箇所に、ザアカイ(清い人の意)という人物が登場している。彼は特別な神の選民の一人であったが、人格的に立派で信仰深い人ではなかった。かえってユダヤ教から破門されているような男であった。祝福されている民族の中に生を受けながら、全く真逆の人生を歩んできたのである(1-4節)。おそらく、他者と比較する身体的劣等意識があってか、それを補い人々を見返すために、金銭中心主義により自己存在証明を求めたと思われる。勢い、強欲男、憎まれ男、嫌われ男となり、民衆からは軽蔑の対象以外の何者にも見られてはいなかった。実に神と人とから失われていた人であった。ザアカイは、折角生まれてきたのに滅びゆく者として、その生涯を終えたのだろうか。否、彼は救われて天国の市民権を得てそこに憩っているのである。では、なぜそのような逆転劇が起こったのだろう。それは、彼の悲しい人生を喜んでいなかったお方がおられたからだ。キリストである。主イエスは、一人の人を救われるために近づかれる。木の上に隠れていたザアカイに、「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)と。救いは人の功徳によるのではなく、神の御心なのである。イエスは、「失われたものを尋ね出して救うため」(10節)に来られた。そして、ザアカイは信仰の子として悔い改め救われたのである。召天者もこの恵みを受けたのだ。