エッセイNo3

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・・・ 牧師エッセイNo3 ・・・ 

 1890(明治23)、英国の宣教師、バークレ―・フォーエル・バックストン師が30歳の若さで来朝した。彼の長年に亘る日本宣教のために、バックストン家が霊的、財的に支えた。それは、彼のファミリーが日本を愛していたからである。現在、ウェア州、イーズニーにあるバックストンの館は、神の僕たちが世界宣教に派遣されるための訓練のための神学校になっている。ALLNATIONS  CHRISTIAN  COLLEGE がそれである。

随分以前のことではあるが、英国の民放ITVが宗教の時間の枠でこの神学校をとりあげたことがある。

内容は、学内礼拝と神学校の働きを紹介するものであった。まず、イーズニーの森とバックストンの館が映し出された。画面は、メインビルディングの玄関から入り、オークとセダーでつくられ落ちついた大広間の中で、大きなファイアロッグ(暖炉)を中心に世界各国から集まっているクリスチャンたちが、一同立ち上がって賛美していた。

ダイナミックなピアノ伴奏、そしてアンサンブル・オーケストラに合わせて歌うその大合唱の威力はすごい。それは美しく、力強く、また霊感に満ちていた。真心からなる礼拝の賛美が確かに天にまで達しているように感じた。

 

「賛美するって本当に素晴らしいですねぇ」と思わず言ってみたい気持ちになったことをよく覚えている。「クリスチャンは、一杯やらないのによく歌う」と言った人がいたそうだが、賛美せざるをえない喜びを与えてくださった神を賛美する歌、これがクリスチャンの讃美歌なのである。礼拝においても、祈祷会においても、私たちは讃美歌をもって主なる神を賛美し礼拝する。

礼拝の次第でいうならば、はじめの賛美から、私たちは心を込め、感謝に満たされ、神の前で賛美のささげものをするのである。

この賛美は、礼拝出席者が出遅れているので、その人たちを待つためのものではない。賛美は時間つぶしのものではなく、その時間に私のすることはこれしかないというほどの真剣さをもって、歌われるべきものなのである。

 

私たちにとって、礼拝の心構えや姿勢、賛美のスピリットに問題はないだろうか。

 

「聖書の中には、祈りよりも賛美について多く語られている」と米国の有名な伝道者ムーディは言った。そして、彼は教会がそのことを忘れてしまっていることを指摘し、賛美を回復させようと勧めている。

「イスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」(詩篇22:3)とあるが、主が賛美の上に座し、賛美の家に住んでおられるとは、何と素晴らしい神であろうか。主をほめたたえ、主を賛美するところには必ず大きな祝福がもたらされる。

 

《する賛美》 私たちの賛美は、まず聴く賛美ではなく歌う賛美である。人にしてもらうのではなく、「私がする賛美」なのである。歌がうまいかどうか、そんなことは二の次である。とにかくこの私が、心を込めて歌うことこそ、最も大切なのである。

かつて、英国のクリスチャンアーティストであるクリフ・リチャードが、バックストンの館に来訪し神学生と交わりの時を持ったそうである。彼は、プロの歌手であり青年時代から80代になった現在もゴスペルを歌い続けている。私たちは、プロの歌手になる必要はない。ただ私の魂からの信仰告白として、自らの声による賛美をすればよいのである。

 

《献げる賛美》 私たちの賛美は、神にささげるものである。それはうまく歌うという意味ではなく、良いものでなければならないだろう。散漫になり易いわがまま気分のままに、適当に歌うのではなく、大きく精一杯歌うのである。つまらなさそうに小さな声で歌うのではなく、主の前にあることを意識しながら一生懸命に賛美するのである。私たちは賛美することに大胆になりたいものだ。少なくとも会話の声よりも賛美の声が小さいクリスチャンになるべきではない。

 

私たちは、王の王、主の主、創造主、救い主、贖い主なる命の主を心から賛美したい。霊と真とをもって本当に礼拝としての賛美を献げたいのである。

 

「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)