エッセイNo6

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 ・・・ 牧師エッセイNo6 ・・・

 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」 伝道の書12:1

 わたしは、4歳の頃、四国のキリスト教主義の幼稚園で初めて神の言葉を知った。旧園舎の玄関のところにガラスの掲示箱があって、その中に墨の字で上記の旧約聖書の一つが書かれていたことをよく覚えている。勿論、意味がわかったのは、卒園後教会学校の小学科に進んでからであった。わたしの信仰はこの時代から肌に直接神の祝福が吸収され養われたように思っている。そして、今牧師となって42年が経過している。

 幼稚園の二年間、にこにこ顔の園長先生が好きであった。「神さまのエッさま(イエス・キリストのこと)を信じてね・・・エッさまはお守りくださる・・・エッさまはよいことだけをしてくださる。エッさまは、みんなをかわいがってくださるのよ。」と。

 そんな園長先生が長い長い間、幼子たちにこの幸せのメッセージを語り続けて、ご高齢になり10数年前に天国に召された。この園長先生を想い出すととても懐かしくなり心温もる。思えば、お世話になりご愛をいただいてきて多くの人たちが、すでに天国の席を満たしている。園長先生より一足早く天に住まいを移した母もその中に加えられている。母は、わたしが小一年生の時に信仰告白と共に救いの体験を与えられ生涯クリスチャンとして生を全うしたのだが、その在世中厳しい試練の最中度々園長先生から与えられる聖書の言葉で慰められ励まされていた。園長先生は、いつも教会と共にあり、苦闘する母のそばに寄り添っていてくださったのである。園長先生は、なぜ人の傷つき疲弊している魂に染み入る言葉を語ることができたのであろうか。

 園長先生は、ご自身の若き時代に信仰をお持ちになられ、創造主を信じ、キリストの十字架による救いを得られた。人生での希望としてキリストがどんな時も共にいて一緒に生きてくださること。そして、死は終わりではなく、永遠の生命が与えられることを単純に信じておられた。そのご自分の信仰のいのちを園児たちに打ち込もうとして幼児教育を志し戦後幼稚園を設立したのである。

 実は、この園長先生は苦難の人であられた。特に母として愛する娘と息子のお二人を先に亡くされていたのだ。どんなに辛く悲しいことであったことだろう。心千々に乱れ深い苦悩と痛みが小さな女性を打ちのめしたのだと思われる。けれども、園長先生には信仰があった。愛と真実の神を信じる信仰によって支えられ守られ試練を越えられたのだ。神の約束により愛する者との御国での再会がある。耐えがたい大きな心の傷を負ってしまったけれども、その向こうには必ず希望がある。人は「涙の数だけやさしくなれる」のだ。先生は、自らの人生の悪しき日が襲ってくる現実の中で、創造者の御手にすべてを委ねられたのだと思う。そこに神に賭けた信仰の証がある。


「エッさまは、よいことだけをしてくださるのよ」と、万事を益としてくださる神を示しておられる園長先生の生き方に学びたい。第二コリント1:37