礼拝R31114

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 2021年11月14日 三位一体第25主日礼拝 題:「御子イエスの血」
聖書箇所:ヨハネの第1の手紙1章5~9節 説教者:丸大勝牧師
「御名と御宝血を崇めて感謝いたします」とは、「活水の群」においてよく耳にする祈りの言葉である。キリストの血潮を崇めることに対して、違和感がある人たちもいるのだろう。しかし、私の理解としては、キリストと十字架上で流された血潮を分離したり、キリストの血に何か呪術的な力があり、血そのものに人格でもあるかのように思いこみ崇めているのではない。御名と血潮は一体であり、共にキリストご自身を崇めているのである。さて、恩師故小島伊助師は、その説教の中で、「キリスト教は血の宗教である」と語られたことがあった。イスラエルは旧約時代に幕屋の儀式によって罪の贖いをしていた。幕屋とは聖所と至聖所の二つの部分によってなり、大祭司は全イスラエルの民の罪の贖いのため、年に一度だけ至聖所に入り、契約の箱の上部、贖罪所に雄牛の血を注いだ。なぜ血に贖いの効果があったのか。それは、神の定めによるのである(レビ17:11,ヘブル9:22)。主なる神は、このように、血のゆえに人の罪を贖い、罪の赦しを与えられるのである。しかし、この儀式は年ごとに繰り返されるもので不完全な贖いであった。そこで、主は完全な贖いをユダヤ人のみならず全人類に与えられた。それが、イエス・キリストの受肉降誕と十字架の死と復活による救いの出来事なのである。イエスの公生涯の始め、バプテスマのヨハネ(キリストの道備えを成す預言者)がイエスと出会った時こう叫んだ。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と。「このお方を見なさい。このイエスこそが、完全なる人類の贖い主として救いを成就されるのである。神が備えられた犠牲となられる小羊なのだ」という意味だ。後に、主が十字架上で息絶えた時、聖所と至聖所との間の幕が真っ二つに裂けた。それは、霊的な意味で十字架信仰を持つ人々が、ただ贖いを信じるだけで、神のところに直接行き、父なる神との親しく交わることができるようになったことを示している。もはや、繰り返される儀式も必要なくなった。全く新しい時代の到来なのである。私たちは、この時から神の恵みにより値なしで礼拝の民の一人とさせていただいているのである。血潮の効力は大いに表された(ルカ15:22,イザヤ1:18,詩篇103:12,ミカ7:19)。今日、それは継続的聖潔でもある(7)