礼拝R31121

このエントリーをはてなブックマークに追加
 2021年11月21日 三位一体第26主日礼拝 題:「幼な子のように」
聖書箇所:ルカによる福音書18章15~17節 説教:丸大勝牧師
親というものは、常に子の幸せを願うものである。この聖書箇所で人々が、イエスの元に子どもたちを連れてきたのも祝福をいただきたかったからである(15節)。ところが、それを見て弟子たちが彼らをたしなめた。それは、エルサレムを目指すイエスの時の緊迫性を感じ取っていたので、追い払おうとしたのだ。すると、マルコ10:14によると、主は弟子の制止を「憤って」、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である」(16節)と言われた。「キリストはその弱い兄弟のためにも死んでくださった」(第一コリント8:11)の真理と重ねることができる。確かに主は幼な子を抱き、手をその上において祝福されたのだ(マルコ10:16)。これは、主の贖いの手である。幼児祝福式の一つの意味はこれである。信仰により大人が子の贖罪を求めて、「みもとに連れて」来ることは、幸せを求める親としては当然の行動であろう。子どもは難しい聖書の講義はわからない。大人の神学論議も理解できない。自分が働いて献金もしない。しかし、イエスは、そのような幼な子を招かれるのである。大人の礼拝に子どもがいることは主の御旨である。それを大人が妨げてならない。もうひとつのことは、主は幼な子によって大人の信仰を促しておられるのだ。「幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(17節)と。これは子どもになれ、というのではなく、「子どものよう」であれ、というのだ。①「大人のように疑い深くなく、素直に信じ受け入れる力がある」。これは大人がバカにするような力ではない。神の国に入るための大いなる能力なのである。②「無意識の自己忘却」。主の招きにためらいもなく来る幼な子の態度。大人は自分なりの哲学を持って頭の中でいろいろ考えて事を慎重に判断して行動するものだ。残念であるが、そのことによって「遅すぎる」ことになってもすぐに結論を出そうとはしない。だが、子どもは素晴らしい神の御心に適う性質を持っているといえるであろう。どうか、まだ救われていない親御さんがおられたら、神の恵みによって与えられた我が子の姿を通して、大切ないのちに関わることを学ぼうではないか。皆さんの上に主イエスの豊かな祝福があるように祈る。