礼拝R31128

このエントリーをはてなブックマークに追加
 2021年11月28日 待降節第1主日礼拝 題:「光の中にいる者」
聖書箇所:ヨハネの第1の手紙2章1~11節 説教:丸大勝牧師
分解1-2 罪について。3-6 神の命令を守る。7-11 兄弟を愛すること。12-17 この世を愛さないこと。18-29 キリストにとどまること。神の光の中を歩く者は、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と、主が新しい戒めとしてお示しになられたように生きることである。「互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(同35節)とも言われた。「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである」(2:9)とヨハネの言葉にあるが、その実例をルカによる福音書の15章に登場する放蕩息子の兄に見ることができるのではないだろうか。弟息子は、ご承知のように親不孝者であり人生の挫折者であった。しかし、彼は己の罪に気づき悔い改めて父の元に帰ってきたのである。一方、兄息子は、父親にとって優等生的子どもであった。真面目で立派で近所の評判の孝行息子であったと思われる。兄は弟が恥を忍んで家に戻って来た時、父親が愛と赦しにより受け入れたのに対して、彼は親の身代を食いつぶしたバカ息子を受け入れることはできなかった。兄は、怒って家に入ろうともせず、合点のいかない父親の弟の態度に不平不満をぶつけた。おそらく兄は心の内側から沸々と憎しみと許せない思いがこみ上げてきたことだろう。この兄も愛情豊かな父親から愛され慈しみを受け生きていたはずである。だが、「互いに愛し合う」ことができなかったのである。光の中にいる者なのになお闇に身を置いていたのだ。何と象徴的な人物であろう。この兄を神から救われ神と共に歩いているクリスチャンとして見てみよう。彼は主から良きものをいただきながら生きている。しかし、そのことで彼に罪が全くなくなったことを意味しない。過去に罪を犯しているし、今もなお性質に原罪を背負っている。神との親密な交わりをしているのは、罪がないからではない。キリストの成し遂げてくださった十字架の死と復活という救いの事実を信じる信仰によって罪の解決を得ているからである。「わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)と記されているとおりだ。もしその人が罪ある行為を自覚したならば、即悔い改め交わりを回復することだ。