礼拝R31205

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 2021年12月5日 待降節第2主日礼拝 題:「いのちを捨てる主」
聖書箇所:ヨハネの第1の手紙3章13~20節 説教:丸大勝牧師
分解1-2 神の子としての生活。3-12 神の子としての聖い生活。13-20 神の子としての兄弟愛。21-24 神の子としての祈りの特権。ヨハネは、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(1節)と語りかけている。文体としては、「考えてみなさい」が最初にきている。それは、知識や経験により筋道を立てて頭を働かせて判断し結論を導き出しなさい、ということであろう。私たちが神の子と呼ばれるために父なる神は何をしてくださったのだろう。「現れる。現れた」という言葉に注目しよう。①「救い主は罪を除くために現れた」(5節)。実に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として主は来られたのである。②「救い主が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうため」(8節)。悪魔は終末において最終的に滅ぼされてしまうが、すでに創世記3:15の預言のように、主の十字架の死と復活の御業によって打撃を受けてしまっている。サタンのかしらは打ち砕かれているのだ。それゆえに、神の子は習慣的に罪のうちを歩まない(9節)のである。③「再臨のキリストが現れる時、わたしたちは、彼に似るものとなる」(2節)。これは、主の復活の御体のように栄化される恵みである。私たちは新天新地にこのからだをもって生きるのである。このような今の救いと将来の救いのために父なる神は驚くような愛を与えてくださったのである。「大きな愛を・・・賜ったことか」である。さて、今秋、諏訪基督伝道館の開拓伝道者であられた小林良雄先生が召されて19年が経過した。改めて小林師の救いと献身の体験を振り返る時、今朝の聖書箇所と実に自然に当てはまる。小林師は、現わされた主の福音の恵みにより真に捕らえられその生涯貫いて主の僕として全うされたのである。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(16節)とある。臨在による主イエスの愛を深いところから受けとめられた小林師は、諏訪の霊の子どもたちを愛された。彼らのそばから離れることはできなかった。霊の子どもたちのためにいのちを捨てる決心をしたからだ。