礼拝R31212

このエントリーをはてなブックマークに追加
 2021年12月12日 待降節第3主日礼拝 題:「神の愛を見る」
聖書箇所:ヨハネの第1の手紙4章9~12節 説教:丸大勝牧師
分解1-6 神の子としての信仰と告白。7-10 神の子に対する神の愛。11-21 神の愛と兄弟愛に生きること。一世紀末、グノーシス派が教会を蝕んでいた。これは、異端であり反キリストの思想であり哲学である。彼らは「人となって来たキリスト」を否定した(2,3節)。なぜならば、物や肉体を悪としたので、キリストが受肉するはずがない、としたのである。またイエスがキリストになったのは、バプテスマを受けた時、天的、霊的キリストが人間イエスに入った時である、とし十字架で死ぬ前に、イエスから抜け出して、死んだのは人間イエスだけであるとした。霊的な天のキリストが死ぬはずがない、と考えたからである。さらには、救われるためには、キリストを信じるだけでは不十分であり、天的知恵(グノーシス)が与えられなければ救われないとした。ヨハネは、そのような教えに真っ向から戦い、受肉されたキリストと十字架の愛の確かさを強調して力説している。①神の愛は受肉降誕と十字架に現わされた(9-10節)。②神と人の唯一無二のご性質をお持ちであるイエス・キリストが、贖いの愛によって罪の赦しと救いを成し遂げられた(10節)。③異端者は、口先だけであって、神の子たちは、神の愛を実践する(11節)。私たちは、異端者のようではなく、真のキリストの救いを受け、神と共にいる生活を知っている。その結実を表す神の子として生きて行こうではないか。聖書が言うように、神を肉眼で見た者は誰もいない。しかし、神の愛に生かされる者は、神の存在をまわりの人々に指し示すことができる。それは、互いに愛するなら、神は私たちの交わりと共にいて、神の愛が私たちの交わりの中に表されることによって、神がどのようなお方であるのかが、私たちの愛の表現によってわかるからである。そのことを、「神の愛を見る」ということができるだろう。神の愛を見たならば、私たちは愛の実体であられる神ご自身を見ることができるのである。「神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(12節)とは、そういうことである。さあ、この年のクリスマス季節にある者として、18-21節のように、神の愛に生きることを実践しようではないか。一人ひとりのクリスマスが心豊かな神の愛に潤されるよう、篤い祈りをささげたい。「神は愛である」(8,16節)、「ここに愛がある」(10節)。