礼拝R40102

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 2022年1月2日 新年主日礼拝 題:「主が設けられた日」
聖書箇所:詩篇118篇21~24節 説教:丸大勝牧師
新年のために神の御言に聴こう。詩篇118篇は、神の恵みに対する感謝の詩である。主のご生涯においては、最後の晩餐の後十字架に赴く時に、弟子たちとの別れの讃美となった(マタイ26:30,21:42)。22,23節は、①諸国民の捨てた選民が用いられること。②メシヤが選民から捨てられて用いられること。この二つを示しているのであろう。「設けられた日」とは、神の定められたメシヤの救いの日のことである。主は素晴らしい救いを与えてくださっているのだ。しかし、主が設けられた日は、日々備えられていることを覚える。①「今日という日は、神が与えられた日であること」 毎日の吉凶を気にする人がおられる。所謂六曜である。何をするにもそれに囚われている人が多い。しかし、この御言は、そういう因習から全く解放してくれる。すべての日を主が設けられたのである。讃美しながら過ごせばよいのである。②「今日という日を、精一杯生きること」 思い煩いを明日に持ち越す必要はない。一日の苦労は、その日一日で十分である。毎日を精一杯生きるのだ。「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」(ピリピ3:13)とパウロは語っている。③「一日一生の生き方は、一年の成功と一生の成功につながること」 成功というと何か人間的、肉的に思われそうであるが、換言すれば、「信仰の報酬」とでも言えるだろうか。私たちの存在証明そのものであられる主なる神が、そのように一生懸命に生きている様を見ていてくださるのだ。そして、それにお答えくださる。詩と画の作者、星野富弘さんのことは、皆さんはよくご存じであろうか。星野さんは、大学卒業後、二カ月後、中学のクラブ活動の器械体操の模範演技に失敗して首の骨を折り頸椎損傷という大事故により、首から下が動かなくなられた。どん底に落ちて泣き続ける日々であったが、そんな星野さんにキリストの福音を伝える人があった。星野さんは、2年後信仰告白をなし受洗された。お話することはできるが、唯一機能する器官は口であってそこにふでをくわえて字と絵を描くようになった。それは、ゼロからの出発であったが、実母、そしてやがて妻となる昌子さんの支えと協力を経て、驚くべき上達を遂げられた。彼は一日一日を精一杯生きて、創造的に良きものを生み出されるのだ。