エッセイNo10

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・・・ 牧師エッセイNo10 ・・・

NO.10

 年末年始、牧師エッセイを少しお休みしていた。いよいよ新たな年がスタートしたが、皆さんはどのような新年をお迎えになられたことであろう。この一年のあなたの歩みの上に主イエスの豊かな祝福と恵みがあるように祈りたい。

 

 さて、私たちはこのような祈りを聞いたり、自ら祈ったりするのではないだろうか。

「神よ。健康は善です。病気は悪です。あなたの証しのためにも、私を常に元気でいさせてください」と。しかし、もし人にとって健康がすべてであるかのように単純に考えているとしたらどうであろうか。私たちは、その考え方によって病める人をばっさり切り捨てかねない。

 

 ヴァン・デン・ベルグが著書『病床の心理学』の中で興味深いことを言っている。

 

「人生を最もひどく誤解しているのは、誰だろうか。健康な人たちではないのか。もっと素晴らしい家に住んでもっと尊敬を受け、もっと高価な車でもっと遠くまで休日旅行を楽しみたい、といった欲望のなだれに身をゆだね、その結果正気を失ってしまい金への衝動に駆られ、眼もくらむような肩書への欲望のなだれに身を委ねているのだ。それとも、自分の部屋の窓枠や、窓やそこからの眺めを、意味に満ちた、あっと息をのむ出来事で満ちた世界にしている患者の方が、そうだというのだろうか。今や、全く別の意味で、一体どっちの方がひどく病んでいるのか。身体の病は、健康な人が容易に失う心の健全さの条件になりうるのだ。病気を持たぬ存在は生きる刺激を欠いている。それは、精神的問題を持たない存在が完全な無意味さに退行していくのと同じである。病者は健康者とは別の世界に住んでいる。病床の時間空間は、われわれの実用的で多忙で、かつ騒がしい健康人のそれとは違っているのである」と。

 

 異論のある方もおられるであろうが、私はこれによって、人間の基本姿勢というものを教えられた。健康であって忙しく動きまわる人生が、私たちの目を本質に向かわせるとは限らない。むしろ私たちに人間らしさを明らかにしてくれるのは、なりたくない病気であったり、人生の悲哀、痛みや苦しみであったりするのではないだろうか。

 

 長野県の坂城町の宝と呼ばれていた水野源三は、信仰から生み出す詩人であられた。

ご存じのように詩をつくるといっても、水野さんは手も足も自由に動かず、話すこともできなかった。ただ自由にできたことは見ることと聞くことだった。その中で五十音表を使い、母親が指さし、一字一字書きあげたのである。

 その詩の一つに次のようなものがある。

  

 今日一日も 新聞のにおいに朝を感じ 冷たい水にうまさに夏を感じ 風鈴の音の涼しさに夕暮れを感じ かえるの声はっきりして夜を感じ 今日一日も終わりぬ 一つの事一つの事に 神さまの恵みと愛を感じて

 

 水野さんは不自由な中にあって、朝の始まり、一日の終わりなど、自然の営みで素晴らしい神の恵みと愛という宝を見つけ出しておられた。一つの事、一つの事に感謝しながら「生かされている喜び」に溢れておられたのである。これに対して現代の多くの人々はどうであろうか。健康で動きまわり、がむしゃらに働いている人々の生きる姿勢は、「自分で勝手に生きている」という姿勢が優先し、心はゆとりを失ってギスギスしているのではないだろうか。それは、さながら機械になってしまった悲しい人間の姿であろう。

 以前紹介した詩人、河野進牧師のこのような詩もある。

 

 病まなければ ささげ得ない祈りがある 病まなければ 信じ得ない奇跡がある

病まなければ 聞き得ない御言がある 病まなければ 近づき得ない聖所がある 病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない

 

愛する皆さん。病気の中に宝がある。病気の中に光がある。病気の中に主が共にいてくださる。病める友よ。実にあなたも主に祝福されているのである。