エッセイNo11

このエントリーをはてなブックマークに追加
・・・ 牧師エッセイNo11 ・・・

NO.11

 スペインの山上修道院に修養のために入った修道士の話である。そこの規律は厳しく終身沈黙を守らなければならなかった。但し、二年ごと一度、二つの言葉だけを話すことが許されるというのである。

 この修道院に入ったある修道士が、最初の二年間を終えて院長の所へ呼ばれ、最初の二語を話すように言われた。

 彼は、「ベッドがかたい」と言った。それから二年後、また話す機会が与えられ、彼が口にした二語は、「食事まずい」であった。さらに二年後、修道士は、「私出て行く」と院長に言ったそうな。

 その時、院長は彼を見つめてこう言った。「君には驚かないよ。ここに入ってからの君の人生は、不平不満の連続だったからね」と。

 

 人は誰しも不平不満を持って生きたいなどと思っていないはずである。一度きりのかけがえのない人生だ。感謝と感動と喜びを持って精一杯輝きたいと願っているのではないだろうか。ところが、意外に「不平不満」「憤り」「恨み」などの負の思いに束縛されている人々を見る。丁度、スペインの修道士のようである。

 そこで、私たちは自分の内面的健康チェックをしたい。それによって、今本当に幸せなのかを知ることができると思う。

 

 第一チェック 「あなたは何んらかの状況や特定の人に対して恨みや憎しみの感情を抱いていないか。恐怖、不安、苦悩に支配されていないか。またある状況や特定の人を受け入れたくないので、怒りや憤りの思いを持っていないか。敵を赦すことができないでいないか」

 

 第二チャック 「あなたの日常の表情は暗く、また歪んでいないか。笑うことを忘れて、いつも顔をしかめていないか」

 

 第三チェック 「あなたの不平不満のゆえに、離れ去った人はいないか」

 

 かのソクラテスは、「汝自身を知れ」と言ったそうであるが、私たちは、本当の意味で幸せになりたいと思うならば、自分の真の姿に気づかなければならない。そして、そこから是が非でも、「変わりたい」と真剣に願わなければならない。

 

 多くの場合は、諦めてしまってそのまま悶々とした生活を繰り返しているのかもしれない。しかし、決して投げ出してはならないと思う。問題に背を向けて心を硬化させて絶望してはならないと思う。必ず光は見えてくることを信じる。

 

 解決の道は、基本的には私たちのキリスト信仰に尽きると言える。イエスさまの罪人を赦し救われる十字架の死と復活の出来事に裏打ちされた信仰が土台である。

 

 私たちは、生身を持って生きている存在として目に見える状況や人に影響され易い。悪いと思われる状況。自分にひどいことを言った誰か。それは一つの事実として弱い私たちの内面に衝撃をもたらすだろう。そして、それらが大きなストレスになったり、いやされがたい心の傷になることもあろう。負のエネルギーをもろに受けてしまうのである。それは、どこまでも自分が中心でものを感じ考え反応する内面の動きである。その時、私たちは神さま信仰などはふっとんでしまって全くないような状態になっているではなかろうか。

 

 そこで、私たちは立ちとどまりたい。こういう言葉がある。「どのような事実があったとしても、もし人が心のフィルムを信仰によって入れ替えるならば、事実が全く違って見えてくる」と。

 これはどういうことであろうか。それは、神さまの目によって視点の転換をすることを意味している。その事実を見る見方捉え方を変えることによって、事実がもはや単なる事実ではなくなるのである。

 

 そもそも人間の内にある罪の性質は厄介なものだ。

「他者からもたらされた自分にとって腹立たしい否定的な出来事は、些細なことでも大きく見える。許せないと思い、そして、自分の言動で何かドラブルになったとしても、大きなことでも言い訳をして小さく見ようとする。それぐらいはいいでしょう」ということになる。実に他人には厳しく、自分には限りなくやさしいのである。

 

 有名な放蕩息子の物語があるが、彼を受け入れた父親の姿は「天の父なる神」のひな型である(ルカによる福音書1511-32)。父親は、放蕩に身を持ち崩し、ぼろぼろになり、悔い改めて帰ってきた我が息子を、断罪し裁くこともできたにもかかわらず、かえって彼を丸ごと引き受けて、熱き赦しの心をもって抱きしめた。だが、家を守っていた評判の立派な兄息子は、自分勝手な恥の子、弟を赦すことはできなかった。彼は弟の悪いところばかりに目がとらわれ、弟を見下し、裁き憎んでいたのである。そんな心で幸せなはずがない。どんなに真面目であったとしても、どんなに優れていたとしても、内面に解放がないならば本当の安らぎはない。

 

 けれども、父親はそんな兄息子を「なだめて」どのような人間も、新しい視点をもって見ていく時に、赦し愛することができないことはないことを教え諭したのである。これによって、兄にも新しい人間関係をつくるチャンスが与えられたと言える。

 

 さあ、どんな状況にも必ず肯定的な要素があるはずである。またどんな人にも必ず良いところはあるはずである。全く希望のない状況と人というものは存在しないのである。

 今あなたの内面は如何か。新年を迎えられて本当に幸せであろうか。

 

 もし神さまの創造の秩序に反して、あなたの輝きが失われているとするならば、改めて原点に立ち返って、十字架のかげに跪こうではないか。主はあなたを「なだめて」新しい視点を示してくださり、神の愛と赦しに生きるよう導いてくださるに違いない。