礼拝R40130

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 2022年1月30日 顕現節第3主日礼拝 題:「主の名を頼む」
聖書箇所:イザヤ書50節10、11節 説教:丸大勝牧師
高知県に龍河洞(鍾乳洞)がある。全体では4Kmだが、一般コースは1Kmほどらしい。子どもの頃から何度か入ったことがあるが、洞内は神秘的な照明があって要所要所きれいではあるが、狭いトンネルのようなもので、これが真っ暗闇であるならば、どんなに気持ち悪いことだろうか、と思ったことがあった。冒険コースでは実際に狭い道を這ったり、真っ暗闇の体験もできる。安全が保障されている観光地ならばよいが、抜けることがないいつまでも続くと思われる人生のトンネルならば恐怖以外にない。この世には、因縁や祟りを恐れ不幸と思われる苦しい自らの人生を運命として諦めている人たちもいる。ヨハネ8:12に「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう」とある。キリストの言葉である。私はこの御言によってクリスチャンとして歩み出した。それは、ある男と重なる。彼は生まれながら盲人であり、人々から好奇の目に晒されて、よってたかって呪われた一生を送る者として決めつけられていたが、心の目が開かれて救われ運命から自由になった。(ヨハネ9:1-5)。この世の光イエスさまを見出したのである。さて、預言者イザヤ(BC740年-BC681年)は、北イスラエルがアッスリヤに滅ぼされた時、南ユダの預言者であった。彼はアッスリヤ(セナケリブ王)からエルサレムを救ったことで知られている。しかし、ユダはバビロンによって滅ぼされてしまう。イスラエルは捕囚の民となるのだ。50章で神と民との関係が夫婦になぞられている。イスラエルが捕囚の憂き目にあったのは、神が悪かったのではない。民の方が神を離れて偶像礼拝という霊的姦淫によって堕落したのである。神に力がないから民を救い得ないのではなく、イスラエルが悔い改めて神に帰らないからそうなったのである。それゆえに、再び生かされるために、立ち返って常に神を畏れかしこみ、その御声に聴き従い、暗黒の中にあるような境遇にも主の名を頼んでいくこと、そこに秘訣があるのだ。この10節に、今日も暗い中を歩いている人たちに対する福音が示されていると思う。お互いの人生、たとえ光を得なくても、この御言のように「主の名を頼み」、その御声に聞き従っていくことこそ、人生のトンネルを抜けていく知恵なのである。