礼拝R40213

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 2022年2月13日 顕現節第5主日礼拝 題:「使徒信条に学ぶ②」
聖書箇所:創世記18章14節 説教:丸大勝牧師
第2は、「我は全能の神を信ず」である。聖書に啓示されている神は、全能者がある。それは、ご自身の意志が必ず実現することを意味している。神は被造物の空間・時間・物質・そして生物に対して圧倒的力をもって支配し統御し治めておられる。すべては必然的に創造者に従っているのである。また、救済史的神のご計画により選ばれた選民イスラエルにとっては、「わたしは全能の神である」(創世記17:1)とアブラハムにご自身を顕現された神は、イスラエル民族の歴史にも大いなる御業をお見せになられた。出エジプトの救い出しにおいても、神はその御力を遺憾なく発揮された。また列強諸国に長年脅かされた時代もイスラエルは決して滅びることなく、全能者が彼らを守り導きその存在は保持されていったのである。「我行はば誰かとどむること得んや」(イザヤ43:13)である。全能者は人間の歴史をも支配しておられるのである。しかし、私たちは礼拝において神を全能者として告白しながら、果たして日常生活でその信仰にどこまで生きているのであろうか。現実は、神の力と影響力を人間の領域に引き下げて小さな小箱に閉じ込めているのではないだろうか。ある説教者が、「あなたの神は小さくないか」と問われたことがあった。実は約束の子を待ち望んでいたアブラハムとサラも同じであった(創世記17:16-17.19.18:12-15.21:2)。何と人間は、有限であり、限界があり、無力なのであろうか。それが私たちの真相である。そのことを徹底的に認識したい。そして、そのような自分をひっさげて神の前にひれ伏したい。そこに立つ時に私たちは全能者と関わることができるようになるのである。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10 新改訳)という言葉がある。「無駄な人間的な企てや策略をやめて、静まって神の働きに委ねよ」という意味である。私たちは、全能者の神を信じていなければ、全幅の信頼を神に置くことはできない。エア腰掛に座っているつもりで、実は我が身を任せないで両足に力入れて踏ん張っているようなものである。神学校の恩師の一人である日本伝道隊のミス・マグラスの印象的な創世記からの説教を忘れることができない。主は、不信仰により冷笑する者を変えて、信じる者に真の笑い(喜び)を与えてくださる、と。