礼拝R40220

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 2022年2月20日 顕現節第6主日礼拝 題:「使徒信条に学ぶ③」
聖書箇所:ヨハネによる福音書3章16節 説教:丸大勝牧師
「我は父なる神を信ず」と。聖書の神は、創造者あり、全能者である。イエス・キリストは、この神を「父」と呼ぶように教えておられる。偉大なお方を父と呼ぶのは、キリスト教会独特である。他に類を見ない。旧約においても同じ思想が流れている。神は選民イスラエルを奴隷の地エジプトから救い出し、乳と蜜の流れる約束の地カナンに導かれた。神は彼らに父として近づき、温かく、力強く忍耐深く育てられた。ところが、イスラエルは歴史において親不幸であり続けた(マラキ1:6)。「わたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実が、どこにあるか」と嘆いておられる。私たちは信徒信条を告白するたびに、本当に父なる神を敬っているのであろうか。口先だけに終わっていないか問われる。父としてのイスラエルの民に対する痛みと悲しみは、彼らが父に背を向け、子としての資格と使命と責任を果たさず、異邦人のように生きていたことである。自己中心、自分勝手、果ては偶像礼拝による霊的姦淫は、大きな罪となったではないか。その姿がルカによる福音書15章の放蕩息子の物語に重なる。この弟息子に背信の民の姿がある。私たちの神なき人生の姿でもあろう。しかし、父は泣きっ面に蜂のような体験で本心に立ち返った息子に対して驚くべき取り扱いをなさるのである。ボロボロになって父の元に帰ろうとする我が子の心中を察し、いやそれをはるかに越えて、走り寄る父として息子を抱きしめるのである。そこに父なる神の愛と赦しと親子関係の回復が秘められているのである。ここで死んでいたような者が生き返り父親の愛の懐に戻ったのである。ハレルヤ。そのために、父は大きな犠牲を払われた。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下った。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるとおりだ。父なる神のご意志は一つである。御子を信じる者が、天国のすべてのよきものを相続することである。それはご自身を与える以上の愛と犠牲によるものだ。それほどまでに神は私たちを愛して下さったのである。かつて、創造者であり全能者である神を父と呼んでいたのは、主イエスだけであった。しかし、今や私たちはイエス・キリストを信じ救われる時に、この神を同じように父と呼ぶことができる。