礼拝R40306

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 2022年3月6日 四旬節第2主日礼拝 題:「我は独り子の神を信ず」
聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~2節 説教:丸大勝牧師
第4として主イエス・キリストを信じることを告白しているが、このお方は、父なる神に対して「独り子」なる神である。これが第5番目である。主は、創造前におられた。使徒ヨハネによると独り子は「言」であって父なる神とともにおられた、という。これは、独り子が父なる神の被造物ではなく、父と同質であることを示している。すなわち主イエスは永遠に存在される神なのである(1:3)。では、「独り」というのは、どういう意味であろうか。それは、唯一無二のお方、独占的意味の独りである。この主イエスこそ、父なる神からこの世にお送りなられた最終的な啓示そのものとなられた(ヘブル1:2-3)。さて、マタイ17:5で、父なる神は、ペテロたちに主イエスをお示しになられ、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と言われた。私たちが聞き従うべき存在は、聖母マリヤや聖人と呼ばれる人たちではない。旧約聖書に登場する預言者でも、地上のキリスト教会の歴史で神に用いられた指導者たちでもない。イエスに聞き従うのが正道なのである。私たちは人物崇拝やカリスマ性があるということで人間に追従してはならない。さあ、言が人となられて、どうなったのか。新約聖書は、感動的な記事で満ちている。「わたしたちのうちに宿った」(1:14)のである。ユダヤの神観念の中に、神は聖にして義にして人間が近寄りがたい存在として捉えられていた。しかし、イエスは違っておられた。ルカ7:11-17にあるナインの女に表された主の深い憐れみと愛は、私たちを驚嘆させる。主は、一人のやもめ女の人生に関心をもって近づかれた。彼女は、一人息子を亡くし葬式の列にあり人々は崩れ倒れそうなこの女を支えていた。そこに主が来られた。「主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、『泣かないでいなさい』と言われた」(13節)。ここでの「深い同情」とは、人間の五臓六腑を指す。主は創造主でありながら、被造物である小さな人間とその人生に起こった出来事によって、影響されておられる。これは、ちっぽけな人間などに影響されることなく、厳然とご存在される権威ある神のイメージとマッチしない。しかし、主は、この女によって内面の深いところから揺さぶられ、心から彼女を憐れんでおられるのだ。実に主は、私たちと共におられるお方なのである。