礼拝R40313

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 2022年3月13日 四旬節第3主日礼拝 題:「聖霊によりて」
聖書箇所:ピリピ人への手紙2章6~7節 説教:丸大勝牧師
使徒信条の第6番目は、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とある。ルカ1:26-38に処女マリヤへ御使ガブリエルにより受胎告知される出来事が記録されている。神の聖霊によってマリヤの胎内に神の子が宿り生まれることが予告されたのだ。そして、2:6,7では、そのとおりに月満ちて幼子は救い主として生まれた。世の中には、ただの人が新興宗教の教祖として旗揚げをしてから、いつの間にか救い主や神に出世する人たちが多い。権威づけるために神秘的な存在であるかの如くふるまい取り巻きの連中の協力をさせて演技をするのだが、教祖の家族がその嘘と偽りを暴露し仮面をはぎ取ってしまうこともままある。主イエスの場合は全く違う。主は旧約聖書で350ほどの預言の言葉がありその一つひとつが成就したのであって、それらはイエス・キリストお一人が神であり救い主であることを指さしている。このお方が、「処女マリヤから生まれた」のである。それは、「人の子として、この世に生まれた」という意味である。マタイ1章のキリストの系図は、まさにこの罪の世に来られた人として生まれた救い主のお姿を見ることができる。さて、主イエスの出所は明白である。イスラエルの父アブラハムまで遡りタビデに通じている。それだけではなく、ここにもう一方で人の欲望と罪の悲しみを見る。①タマル。②ラハブ。③モアブの女ルツ。④ウリヤの妻。⑤アハズ王。これらの人々は、神に背く系図の中で紹介されている。実に主イエスは、そのようなこの世に潜り込みご自身を埋め込むようにしながら受肉降誕されたのである。しかしながら、彼自身は罪によって汚されることなく、聖なる神の子として、ひとり立たれるお方であられたのである。「聖霊によりて」この世に来られたということは、そういうことである。イエス・キリストは、聖なる神の子救い主であるゆえに、人間の過去現在未来のすべての罪を背負うことができた。そして、その罪を贖う唯一の資格がある存在として十字架による救いを成し遂げられたのである(ヨハネ1:12)。主イエスを信じる時、私たちは神の子とされる。父なる神の実子ではなく、主イエスの十字架の死と復活というとりなしの死によって、子ではない者が、丁度養子縁組のようにイエスのゆえに神の子とされるのである。これも聖霊の御業だ。