礼拝R40320

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 2022年3月20日 四旬節第4主日礼拝 題:「我は十字架の主を信ず」
聖書箇所:マルコによる福音書8章31節 説教:丸大勝牧師
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」との真意は何か。カルヴィンは、「単に十字架につけられ、死なれた」といわないのはなぜか、と問う。それは、「私たちに歴史の確かさを確信させることであり、彼が死刑を確かに宣告されたことを表わすため」であると答えている。その説明は、「キリストが死なれたのは、人間の当然受けるべき苦しみを自己の身に引き受け、私たちを苦しみより救い出すためである。しかし、私たちは神の審判の前には悪しき者の如く罪人であったので、彼は私たちに代わって、この世の法廷に出て、かつ私たちが天の審判の座において赦されるため、ピラトの口から刑の宣告を受けたのである」とある。そして、ピラトの法廷は、神の法廷を指している。ピラトの口は神の口を代表していたというのだ。父なる神はこのように独り子を取り扱われたのである。「葬られ」は、イエスの死が真実であることを示している。その背後には、「陰府にくだり」とあるように、そこは「大きな淵」によって隔てられている場所であり、キリストはこのような神なき世界にまで下られたことを示し、父なる神により完全に捨てられたことを意味している。これが、父なる神が私たち罪人にために払われた犠牲なのである。三日間、陰府におられたイエスは、父とともにいなかった。御子は独りであった。それは父なる神が「父と子」が永遠に一緒であるあり方を破られたことを示している。父と子とそこまでして、罪人の私たちを救おうとされたのである。実にその犠牲の深さを思わされる。ここに父なる神の涙と子なる神の一貫した父への服従を見る。この大いなる神の愛を知らされた者で感動しない信者はいない。沈滞している霊性や消えかかっている信仰の灯であったとしても、私たちの与えられている救いが、神の驚くべきご犠牲の上によって成り立っている「救い」であることを思いかえす時、私たちの内側から燃え上がるものがあるのではないだろうか。レントにある私たちが、もう一度内面が整えられてイースターを迎えていくことができるように、心備えをしようではないか。「心にせまる父の悲しみ 愛するひとり子を十字架につけた 人の罪は燃える火のよう・・十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙 それはイエスの愛」と。